阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年4月8日
「救いのために」
ルカ18章35-43節

  主イエスの地上でのお働きの中で、人々を癒すという大きな働きがありました。障害を持つ人は、不自由な生活をすることになり、主イエスの時代では、物乞いをするよりほか生活の手段はありませんでした。
 美しの門で癒された人も、生まれながらに足が不自由で、物乞いをして生活をしていたのです。
 この盲人もエリコの近くで細々と人の施しによって生きていたのです。
ある時、群衆が慌ただしく通り過ぎる気配に、何事が起ったのかと思い、人々に「何事が起ったのですか」と聞きました。
マルコによる福音書の記事によると、この盲人はテマイの子バルテマイという名前であると記されています。
 バルテマイは、「ナザレのイエスがお通りだ」と知らされると、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。大きな声で叫ぶので、人々は彼を黙らせようと叱りつけました。しかし、バルテマイはますます大きな声で叫び続けました。
主イエスは立ち止まって下さり、バルテマイを連れてくるようにと命じられました。バルテマイは、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの許に近づきました。
主イエスは、「何をして欲しいのか」と聞かれました。バルテマイは「主よ、目が見えるようになりたいのです」(ルカ18:41)と答えました。主イエスは、「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」。(ルカ18:42)と言われたのです。マタイによる福音書によれば、この時イエスは盲人を深く憐れまれたとあります。
盲人はたちどころに見えるようになり、神を褒め称えながら主イエスに従う者になりました。この時、目と心が新しくされたのです。
この出来事の後、エリコの町でザアカイに救いがもたらされます。
主イエスに出会い、主イエスに救いを求める人は、だれでもどのような状況の中からでも、直ちに救われることが教えられます。
バルテマイはイエスがお通りになることを聞いた時、主イエスを求めて叫びました。「私を憐れんでください」と救いを求めたのです。
彼には、どうしても癒していただきたいという願いと、イエスにそれがおできになるという信仰がありました。ですから、どんなに叱られても叫ぶことを止めようとはしませんでした。
 彼の声は主イエスに届いていました。主イエスの許に行く時に、彼は上着を脱ぎ捨てました。貧しい者たちにとって、上着は失ってはならないものでした。上着は大切な生活の必需品であり、財産でした。出エジプト記22章には、貧しい人にお金を貸す時に、上着を担保にとっても、それは日没までに返さなくてはならないとあります。なぜなら、それは、その人の唯一の衣服であり、着物であり、くるまって寝るものだからとあります。ステファノが殉教する時、パウロは石を投げる人々の上着を預かりました。誰もが上着は失いたくなかったからです。外套になり、布団になり、時には命を守るものだったのです。その日暮らしのバルテマイにとっても、唯一の財産でした。しかし、彼はそれを脱ぎ捨てて踊り上がって主イエスに近づいたのです。
 今、自分に新しい事が起こる。それは、古い上着のようなものではなく、比較にならない絶大な価値のあるものがイエスによって与えられるということを信仰によって知ったからです。彼は喜びに満たされていました。
 主イエスは、静かにお聞きになりました。「何をしてほしいのか」。
「目が見えるようになりたいのです」短い会話が交わされました。
 バルテマイは長い説明をしませんでした。自分の身の上話も、生活のつらさについても話すことはありませんでした。主イエスはすべてを知っておられるお方だと信じていたからです。一番大切で、一番していただきたいこと、目が見えるようになることだけをお願いしたのです。
この会話は主イエスが教えられた、祈りの手本となるような会話でした。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタイ6:7)「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたの必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:8)と教えておられるのです。
 主イエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」(ルカ18:42)と宣言してくださいました。厳粛な瞬間です。たちまち目が開かれ、主イエスに従う者になったのです。この時から人生は全く変えられました。暗闇から輝く光の中へ、絶望から希望へ、滅びから命へと変えられたのです。
 人にとって一番大切で、求めなければならないものは、主イエスの救いです。バルテマイが、1、2枚の少額のコインを下さいと、施しを求めたなら、これほど愚かなことはなかったでしょう。施されたものは、その日のうちになくなってしまうのです。バルテマイは本当に大切なものを求めました。
 私たちが声を上げて主イエスを呼ぶ時、群衆に遮られて声が届かないのでしょうか。決してそのような事はありません。私たちの声は主イエスに届いているのです。そして、生活の中の様々な必要について、主イエスすべてを知っておられます。些細なことにも心配してくださるのです。ですから、私たちは主イエスに自分の必要だけを求める者ではありたくないのです。私たちは、本当に必要な事を求める信仰を持ちたいのです。それは、日々主の栄光をどのようにして現すことができるかを求める事です。
バルテマイは、古い上着を投げ捨てました。この時、古い自分は捨て去って、キリストを着る者とされました。
主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。主イエスはこの御言葉を時々お掛けになりました。12年間長血の病に苦しんでいた婦人が癒された時も、この御言葉を掛けて下さいました。
これは、主イエスはメシアであり、救いと癒しを与えて下さるお方であると信じる。その信仰のゆえに癒されたという意味のお言葉です。
 主イエスはエリコの町でバルテマイと全くタイプの違うザアカイを救って下さいました。ザアカイは徴税人の頭で大金持ちでした。背は低くても徴税人として働き、生活には困ることはありませんでした。しかしザアカイは、心の目が閉ざされていた人でした。主イエスがエリコへ来られたのは、バルテマイとザアカイの為であったのかもしれません。
バルテマイは主イエスを大声で呼びましたが、主イエスは、いちじく桑の木の上のザアカイに声を掛けて下さったのです。主イエスはザアカイの家に泊まって下さり、ザアカイは喜んで主イエスを家に迎え、もてなしました。
この出来事を目が開かれたバルテマイも目撃していたのではないでしょうか。ザアカイは主を迎え入れた時に、今までの自分の心に気が付きました。ザアカイにとっての上着は、蓄財であったのでしょう。お金さえあれば生涯安泰に暮らせるはずと思っていたのですが、その心に平安はありませんでした。人からは罪人と断罪されても、自分では罪が分かりませんでした。主イエスをお迎えした時に、心の目が開かれて、悔い改め、今までの自分を捨て去ることができました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」((ルカ19:9)と告白しました。この言葉はザアカイの悔い改めと信仰の告白であり、これから主イエスの新しい命に生きるという事の宣言でした。主イエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:9,10)と言われたのです。それは、「ザアカイ、あなたは今日救われた」と、いう意味です。主イエスは、失われた者、即ち神の許を離れて、迷いの中に進む人々を、救うために来られました。神の許に立ち返るためには、罪を解決しなければなりません。それは、主イエスだけがおできになる事でした。すべての人の罪を背負われ、十字架でその贖いを完成してくださいました。私たちは、主イエスを信じながらも、古い上着を着たままでいる事はないでしょうか。それは、古いままの肉の性質であり、まとわりつく罪と考える事ができます。十字架の下に日々悔い改め、新しい人、即ちキリストをまとう人として、永遠の命を喜びながら主の栄光のために用いていただく日々であるよう祈り求めましょう。


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