阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年4月15日
「失望から希望へ」
ルカ24章13-35節

 主イエスが復活された日の午後、二人の弟子がエルサレムからエマオへと向かって歩いていました。エマオはエルサレムから11キロ位離れたところにある村でした。
二人は歩きながら大声で主イエスについて話し合っていました。それは、主イエスが逮捕され、十字架で息を引き取られて墓に葬られた事、そして、日曜日の朝、復活したと婦人たちが話したことでした。
彼らは、クレオパという弟子と、もう一人の名前は記されていません。
すると、一人の人が近づいてきたのですが、「目が遮られて」いて、それが主イエスだと気づくことがありませんでした。
主イエスが、今二人が話し合っていることはどんなことなのかと、お尋ねになったので、彼らは立ち止まりました。そして暗い顔をして、この数日、エルサレムで起こった出来事をあなただけが知らないのかと言いました。ナザレのイエスが十字架で死なれて葬られたのに、婦人の弟子たちが墓に行くと遺体はなく、天使が、「イエスは生きておられる」と告げた事、弟子たちが墓に行ってもその通りで、主イエスはおられなかったという出来事について語りました。
クレオパともう一人の弟子たちの心はどうだったのでしょうか。彼らは、主イエスを「ナザレのイエス」と呼び、イエスは行いにも言葉にも力のある預言者だったと理解していたようです。そして、主イエスを、エルサレムを解放してくださる方に違いないと望みをかけていたのです。イスラエルをローマ帝国の圧政から救い出して下さり、独立を果たし、国に昔の栄華をもたらして下さるのではないかと、大いに期待し、希望をかけてきたのです。
ところが主イエスは逮捕され十字架で死んでしまった。エマオはエルサレムから11キロほど離れている所です。人はだいたい1時間に4キロか5キロ位歩けます。ですからエマオには早ければ3時間、道が悪くて歩きにくくても4時間くらいで到着することができました。
ですから、日暮れの4時間位前にエルサレムを出発したと考えることができます。朝、日の出前に歩き始めると、だんだん日が明るくなり、心も明るく歩けるのですが、弟子たちはこれから暗くなるという日没前に、暗く沈んだ思いで歩き続けていました。
彼らは、主イエスをどなたか理解し、信じていませんでした。以前、主イエスが弟子たちに、人々は主イエスを何者と言っているかと聞かれたことがありました。弟子たちは、「バプテスマのヨハネ」だ、「エリヤ」だ、「エレミヤ」だとか、「預言者のひとりだ」と言う人もいますと、答えました。イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)と言われると、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子」ですと答えました。主イエスは、あなたは幸いだ。この答えをもたらされたのは、天の父だと言われたのです。
クレオパたちは、主イエスをメシアとは信じられませんでした。イスラエルを解放してくれる預言者の一人と理解していたのです。
日没に向かって、暗い心、望みが絶たれた思いで歩きつづけました。たぶん、彼らの家がエマオにあったので、自分の家に帰っていったのでしょう。希望は絶たれたと思っていたのです。
主イエスは二人に近づいてこられて話しかけて下さったのですが、二人は主イエスであることがわかりませんでした。
主イエスは希望を失い、先の事について不安しかもたないような者に近づいてきて共に歩まれるお方なのです。
ご自分を救い主、メシアと信じていない人と共に歩んでくださるのです。
主イエスは二人の話をお聞きになり、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(ルカ24:25、26)と言われて、旧約聖書から主イエスについて記されていることを解説してくださいました。出エジプトの過ぎ越しは、血の贖いの型であり、イザヤ書や詩編にも主の受難と復活は多く記されているのです。創世記3章15節に、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」という御言葉があります。神がアダムとエバを唆したサタンに向かって語られた御言葉です。主イエスを十字架に架けて勝利したように思うかもしれないが、それはかかとを砕いたようなもので、お前の頭が砕かれ、罪の解放がもたらされ、十字架の完全な勝利があることを早々と語られたのです。
ペンテコステ以後のペトロも議会に捕らわれ、尋問された時、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」と、詩編118編を引用して主イエスの死と復活を証言したのです。
隅の親石とは、建物全体の要となる石で、この石によって全体が建て上げられる、なくてならない石であり、主イエスこそがこの親石であるのです。
エマオへの道すがら、主イエスご自身が旧約聖書を通して十字架と死、復活を話して下さいました。すばらしい時間でした。
エマオが近づいて、主イエスは先に行こうとされる様子でしたが、二人は「お泊り下さい。夕方になるし、日も傾いています」と、無理に引き留めました。主イエスは家に入って下さいました。食卓に着き、賛美と祈りをささげて、パンを裂いて渡して下さった時、二人の目が開き、主イエスであることがわかりました。
二人は、主イエスと食卓に着き、パンを裂いて渡していただくという特権に預かったのです。その交わりの中で目が開かれ、主がわかったのです。主イエスはすぐに見えなくなったのですが、二人の心はもう先ほどのような失望感はまったく取り除かれていました。
主イエスご自身が自分たちと共に歩まれ、御言葉を通して十字架の意味と復活を教えて下さったのです。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)と語り合いました。
失望し、暗い心でエルサレムを出発した二人でしたが、復活された主イエスとお会いして、心が燃えるという体験をしました。主イエスに出会って、改めてこの方を信じました。復活の主、生きておられる救い主を信じた時、むなしさや、失望から、いきいきとした希望を持つ者に変えられたのです。彼らはエマオに到着し、家で休んだのでしょうか。もう暗くなり、夜道は危険でした。
しかし「時を移さず」家を出発し、急いでエルサレムへ戻りました。
また11キロの道を歩いたのですが、来るときとは足取りが違ったはずです。エルサレムの11弟子のところに戻ってみると、そこでは、主イエスの復活が話されていました。そして、二人も主イエスにお会いしたことや、パンを裂く様子で主イエスが分かったことなどを話していたのです。
エマオ途上で二人と出会い、御言葉を語って下さった主の目的な何だったのでしょうか。それは、主イエスの救いがすべての人にもたらされることの証人となるためでした。
主イエスは、弟子たちのところに来てくださいました。亡霊ではなく生きておられることを表すために、食事をされたのです。
主イエスは彼らの「心の目を開いて」(ルカ24:45)とあります。
十字架の死も復活もおぼろげにしかわからない弟子たちの心の目を開いて下さり、はっきりとお語りになりました。
「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。(ルカ24:46,47)
 エマオでむなしく生きていくことしか考えられなかったクレオパたちは、新しい希望に生きる喜びを与えられました。主の復活の証人として、主イエスをすべての人に宣べ伝えるという希望です。
主イエスが十字架で死んでしまったという悪い知らせに失望していた者は、主は復活されたのだという素晴らしい良い知らせを伝える者として立てられたのです。
 主イエスは私たちと共に歩まれ、御言葉を説明し、ご自身が復活され、生きておられる方であることを教えて下さいます。主イエスにこそ救いが、希望があること、燃える心がある事を告げ知らせて行きましょう。


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