阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年4月22日
神の子メシア
ルカ9章18-20節

  主イエスは良く祈られる方でした。その祈られる姿を見て弟子の一人が「わたしたちにも祈りを教えて下さい」(ルカ11:1)と願って、主の祈りを教えていただきました。12弟子をお選びになった時は、山に入られて、夜通し祈られたのです。十字架の直前のゲッセマネでは、汗が血の滴りのように地面に落ちるほどに祈られて勝利なさいました。主イエスは、十字架の贖いというご計画が、その通りに成就するように、「御心がなるように」と祈られたのです。
18節に、イエスは一人で祈っておられたとあるのですが、主イエスは、何を祈っておられたのでしょうか。この時、主イエスが弟子たちに大切な質問をされる前だったのです。そして、祈りの後に「群衆は、わたしのことを何者と言っているか」(ルカ9:18)とお尋ねになりました。
弟子たちは、「バプテスマのヨハネ」とか、「エリヤ」だとか、「昔の預言者のだれかが甦ったのだ」とか言っていますと答えました。事実、多くの人がそのように思っていたのです。
バプテスマのヨハネは、メシアが来られる前に道備えをするために召されました。人々に悔い改めのバプテスマを授けて、メシアを受け入れるように心を整えさせたのです。
主イエスはバプテスマのヨハネの事を、「彼はエリヤのような預言者であり、預言はヨハネの時まで」(マタイ11:13)であると言われました。ですからバプテスマのヨハネは最後の預言者だと言われているのです。
主イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(ルカ9:20)と弟子たちに聞かれました。ペトロは、「神からのメシアです」(9:20)と答えました。メシアとは、ヘブル語で「油注がれた者」という意味で、古くは「受(じゅ)膏者(こうしゃ)」と訳されていました。旧約聖書では、神によって特別に選ばれ、王や預言者に任命された者に油が注がれました。ダビデも王に選ばれた時、サムエルによって油が注がれたのです。ペトロは、「あなたはメシアです」と告白しました。それは、「あなたはキリストです」という意味になります。
この時から、主イエスは弟子たちにご自分がエルサレムで祭司長や長老たち、律法学者たちから苦しめられ、殺され、三日目に甦られることを話し始められました。
ペトロの反応はどうだったでしょうか。主をわきへお連れして、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、いさめたのです。「イエス様、ちょっとこちらへ来てください。皆には聞かせたくないのです」といった具合です。当時、弟子が先生をいさめる事はありえない事でした。
ペトロは、主イエスがとんでもない事を言い始められたと思いました。メシアは、力強く、常に民衆を導き、昔のダビデのように王になるべきお方と考えていたからです。
ペトロとは岩という意味があります。もともとシモンという名であっペトロが、「あなたこそメシア」と告白した時に、主イエスは「あなたはペトロだ」と呼ばれたのです。
その直後に、ペトロは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)と叱られてしまったのです。
主イエスはご自分がこの世に来られた目的を良くご存じでした。すべての人の贖いとしてご自分の命を捨てるために来られたのです。歩まれる道は十字架への道でした。
主イエスは輝かしい権力のある王として来られたのではなく、僕の姿をとってくださいました。ベツレヘムでお生まれになった時、宿屋には部屋がなく、家畜小屋でお生まれになりました。メシアは貧しく低い姿勢を取られたのです。それは十字架に至るまで徹底していました。
ある時主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)と言われました。
ある人が、キリストのこの世での歩みを、「借りた家畜小屋で始まり、借りた墓で終わった」と言っています。その生涯はまさに、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(マタイ8:17)の御言葉通りでした。休む間も宿る所もなく、主イエスは神の国を伝えて進み行かれたのです。
棕櫚の聖日にエルサレムへお入りになった時にも、ろばの子に乗られてお入りになりました。王であるなら堂々とした白馬に乗って入城するのがふさわしいはずですが、主イエスはろばの子に乗られたのです。ろばは荷物を運ぶために使われることが多く、身分の高い人が乗ることはありませんでした。ろばに乗ると、立っている人と同じくらいの高さにしかなりません。神の子がここでも低い姿勢をおとりになったのです。
ペトロは世の王としてのメシアを考えていました。他の弟子も同じような思いだったでしょう。
私たちは、メシアをどのように信じているのでしょうか。
主イエスは、私たちの祈りに答えて下さり、慰めに満ち満ちたお方です。この世の中で誰かが見放しても、「わたしはあなたを決して見放さない」と言われるお方です。何度失敗しても、赦し続けて下さるお方です。もし道を外れるなら、良い羊飼いとして、見つけ出し、連れ戻して下さるお方です。すべての良い物を備え、与え続けて下さるお方なのです。罪を赦し、永遠の命を与えて下さるお方です。
この方による以外に救いはない。完全な救いを与えて下さるお方。寄り頼むべきお方であり、決して失望に終わることのない方です。
素晴らしい魂の救い主、メシアなのです。私たちは主イエスご自身を喜びとし、楽しみとするのです。
そして、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と教えて下さいました。主イエスを愛し、従いたい者は、自分を捨て、毎日十字架を負って従ってくるようにと教えておられます。
自分を捨て、自分の十字架を背負って行くという事は、主イエス様にすべての主権があることを認めていくことです。自分の人生、自分の財産、自分の命など、人はすべて自分のものだと思っています。
しかし、命はだれのものでしょうか。人は自分の寿命さえ自由にすることはできないのです。時間はだれのものでしょうか。すべては主イエスが私たちに賢く使うようにと管理を任されていることを忘れてはなりません。賢くというのは、御心にそって用いるという意味です。
私たちは祈りの中で主イエスの御声を聞きます。
「あなたはわたしを何者というか。」「あなたこそメシアです。」「私をメシアと信じるのなら、あなたの心をわたしに明け渡しなさい。」「そして、自分を捨て、自分の十字架を背負って従ってきなさい。」「アーメン」。これがクリスチャンの日々の祈りではないでしょうか。
 「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」(ルカ9:25)
主イエスが下さる永遠の命を受け入れましょう。すでに受け入れているのなら、主イエスに更に心を明け渡して、日々信仰により、御心を行う生涯となるように祈り続けましょう。
ペトロは、ネロ皇帝の迫害により殉教したと言われています。ペンテコステの聖霊の傾注以後、力強く福音を伝え続けました。ローマで迫害が起こった時、アッピア街道を逃れていくと、向こうから来られる主イエスと出会ったのです。それで、「主よ、いずこへ」と聞くと、「あなたがローマを捨てるなら、わたしはもう一度十字架に架かるためにローマへ行くのだ」と言われました。ペトロは、主イエスをもう一度十字架に架けてはならないとローマへ戻り、十字架で殉教しました。
主イエスは、主イエスをメシアと信じ、信仰の告白をする者に、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(黙示2:10)と約束してくださいました。命のある限り、キリスト、メシアを信じる事に忠実であれと教えているのです。
わたしたちに約束されているのは、「命の冠」、永遠の命であることを感謝しましょう。これこそ、人生の最大の喜びであり、希望です。
メシア、救い主を賛美し、褒め称えましょう。


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