阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年4月29日
人生の主
ヨハネ21章15−19節

 復活された主イエスは、ティベリアス湖畔(ガリラヤ湖畔)で、弟子たちとお会いになりました。ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子のヤコブとヨハネ、また、名前があがっていない弟子たちが漁をしていたのです。
7名の弟子たちは、故郷ガリラヤに帰って漁をしていました。
既に復活された主に二度もお会いしているのですが、弟子たちは故郷に帰っていました。
ペトロはリーダーの役割をしているようで、「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも一緒に出掛けて舟に乗り込みました。
しかし、夜を通しての漁でしたが、魚はまったくとれませんでした。。夜通し働いて何も獲れないという事は、心を沈ませ、体も疲れてしまう状態でした。
しかし、夜が明けて明るくなった時、岸辺に主イエスが立っておられました。弟子たちはその人が主であることが分かりませんでした。
主イエスは、「子たちよ、何か食べるものがあるか」とお聞きになりました。弟子たちは、「ありません」と答えたのです。主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれとれるはずだ」と言われました。そこで主の言われる通りにすると、魚があまりにも多くて網を上げる事が出来ないほどでした。イエスの愛しておられた弟子が、「主だ」と叫ぶと、ペトロは上着を纏って海に飛び込みました。岸から90mくらい離れたところに船があったので、お互いの声も届くし、泳いで岸に近づく事も難しくはありませんでした。
陸に上がると炭火がおこしてあって、魚がのせてあり、パンもあったのです。さらに今獲れた魚を加えて、主イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。
イースターの夕方、復活の主イエスが弟子たちに現れて下さり、聖霊を受ける事、主イエスによって遣わされることを話して下さいました。
しかし、弟子たちはガリラヤに戻って、漁をしなければなりませんでした。何をしたらよいのかはっきりわからなかったからです。
主イエスはそのような弟子たちに三回もご自身を現わされ、共に食事をしてくださいました。
主イエスが炭火をおこし、魚を乗せて焼き、パンを用意し、招いてくださったのです。食事をするというのは、本当に親しい交わりを現わします。主イエスは、べタニアのマルタの家で良く食事を共にされました。マルタ、マリア、ラザロの兄弟と幸いな交わりをされたのです。
夜通し働いた弟子たちは、心も体も温まり、主イエスとの交わりの中に改めて自分たちの人生を思い返すことができました。
主イエスは、大切な働きのためにガリラヤへ来てくださいました。
食事の後、主イエスはペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とお聞きになりました。ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えました。すると、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われたのです。
二度目に又、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」とお聞きになり、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えました。主イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。三度目に主は、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と聞かれたので、ペトロは悲しくなって「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」とお答えしました。主イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
ペトロは、大祭司の庭で三度も主イエスを知らないと拒みました。それは、裏切り者のユダに劣らない大変な罪でした。後悔しても主イエスを否んだことは取り返しがつかない事でした。
このままガリラヤ湖の漁師に戻って人生を終えても仕方がないと思っていました。
ガリラヤ湖畔は、かつて主イエスが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:10)と言って、ペトロやアンデレ、ゼベダイの子のヤコブとヨハネを召された故郷でした。ペトロを始め弟子となった彼らは、主イエスの救いを伝え、人々を主イエスに導くために召されたのです。ですから、漁師として生涯を送ることは御心ではありませんでした。主イエスの召しは変わらないのです。
主イエスは、その召しに確信を与え、もう一度主イエスに従う人生であるようにと、チャンスをくださいました。
主イエスはペトロに「私の小羊や羊」を飼う事、世話をする事を命じられました。
主イエスに従う道は、厳しい道かもしれません。福音を伝える事は苦しい事も多いのです。迫害の事実もありました。宣教をして、教会を建て上げ、小羊や、羊、一人一人の魂の世話をしていくことはたやすい事ではないでしょう。主イエスとお会いするまでは漁師でした。しかし、人々の魂のために働く者として、人生をささげるように、もう一度チャンスを下さったのです。
主イエスを愛するという事は、主イエスの御声を聞き、その御声に従う事です。主イエスに従う事で苦しい事があっても、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ5:11、12)と教えてくださいました。主イエスを伝え、従う時に拒絶され、誤解され、苦しい思いをしても、天に大きな報いがあり、大いに喜ぶことを教えてくださいました。ペトロたちは、あらためてこれらの御言葉を思い起こして、これからの自分たちの人生について考え、もう一度主に従う決心をすることができました。そのために主イエスはガリラヤ湖畔で弟子たちにお会い下さったのです。主イエスは、何度もご自分の御心を示して下さるお方なのです。
主イエスはご自分を良い羊飼いであると言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10)主イエスご自身が良い羊飼いで、ご自分の羊を飼い、世話をしてくださるのです。ですからペトロは、主イエスは「魂の牧者」(Tペトロ2:25)であると記しています。
だれもが、この魂の牧者の下に戻らなければなりません。ペトロはその手紙の中で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです」(Tペトロ2:25)と記した時、ガリラヤ湖畔での主イエスの御声を思い起こしたにちがいありません。
私たちの人生について詩編には、「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り 人生はため息のように消え去ります。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(詩編90:9,10)とあります。最近、喜界島の世界最高齢の女性が117歳で亡くなられたというニュースがありました。1900年生まれだそうです。117歳と言えば長生きのようですが、瞬く間に時が過ぎたのではないでしょうか。
私たちは主イエスを人生の主として、心に信じ、この方の御心に従い続ける人生は、本当の意味で十分に意義のある人生と変えられます。そのような人生を送ることが出来るように、主イエスは何度もチャンスを下さるのです。道をそれそうになったときは、引き戻して下さり、飢え渇くときは豊かに養われるお方です。
ガリラヤ湖畔で弟子たちを待っておられたように、私たちの人生に御声をかけて下さり、「私を愛するか」と何度も聞いて下さるのです。
主イエスは、私たち一人一人に、「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」と語っておられます。
わたしたちに、主イエスの羊が委ねられ、主イエスに結び付けるという素晴らしい働きに召されていることを覚えましょう。
主イエスを心から愛する愛が、力となり、希望となるのです。
主の愛に満たされましょう。自分自身をささげて主の働きのために大きく用いていただく人生となるように祈りましょう。


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