阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年5月6日
神の栄光のため
フィリピ4章15-20節

 フィリピの信徒への手紙は4章からなる短い手紙です。この手紙はパウロがローマの獄中からフィリピの教会に宛てた手紙ですが、喜びに満ち溢れています。いかなる境遇にあっても、常に喜ぶことを教えています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」
(4:4)
フィリピの教会は、たびたびパウロに贈り物をしていたようです。贈り物の感謝と共に、フィリピの教会からパウロに贈り物を携えてきた、エパフロディトという弟子を帰すという事が記されています。エパフロディトは、パウロに仕えるようにと送られたようですが、病気になってしまいました。パウロは、パフロディトがパウロに仕える事が出来なかったことで心を痛めないようにと、「主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」(フィリピ2:29−30)と書き送ったのです。
フィリピの教会が建て上げられる経緯(いきさつ)は、使徒言行録16章に記されています。紫布の商人リディアや、牢屋番と家族の鮮やかな救いがあり、やがて主イエスを信じる者の群れが建て上げられていきました。
パウロは、フィリピの人々の主イエスにある愛と心遣いを喜びました。しかし、パウロ自身のためよりも、フィリピの教会のために喜んだのです。それは、贈り物はパウロにではなく、神への供え物として理解したからです。「それは、香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(フィリピ4:18)とあります。
これは、旧約聖書の中で神が喜んで受け入れて下さる供え物の表現そのものでした。フィリピの人々は、パウロを思って贈り物をしたのですが、実は神への祈りであり、献身となったのです。パウロは、フィリピからの贈り物を、神から与えられた物として受け入れ、満ち足りて感謝しました。
そして、「わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たして下さいます。わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(フィリピ4:19、20)と続けました。
神の栄光とは、計り知れない神の素晴らしさであり、その臨在です。
フィリピの教会は、パウロに贈り物をしましたが、それによって貧しくなることはありませんでした。なぜなら、神は必要を満たされるからです。「すべての必要が満たされる」という御言葉に気がつくと思います。すべての願いや要求が満たされるとは書いてありません。「必要」が満たされるのです。   
主イエスは山上の教えの中で、生活の必要はみな与えられると教えてくださいました。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。」(マタイ6:32)
私たちは、「必要は満たされる」という約束を取り違えて、自分の思いが何でも満たされると思い込むと、満たされないという不信仰に陥ることがあるのではないでしょうか。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)神の国と神の義を求めること、それは神の栄光を現わす生き方を求め、御言葉を愛し、従う事なのです。
神は御自身の栄光の富から満たして下さるとあります。神の栄光の富は無尽蔵の富です。「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。」(詩編25:1)とあります。また、「銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる」(ハガイ2:8)とあります。
創造主である神は、私たちがわかるようにこのように教えておられるのです。世界とその全てを創造し、治めておられる方の天の富は無限なのです。私たちが命を維持していくためには、食物が必要です。この食物は神が栄光の富から与えて下さり、養って下さっています。ですから、「日々の糧を与えて下さい」と祈り、私たちの生活のすべてに神の臨在があるのです。豊かに必要を満たして下さる方に栄光をお帰しすることこそ、救いを受けた者の日々の生活です。
イザヤ書43章7節には、人が創造された目的が記されています。「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり、完成した者。」(イザヤ43:7)とあります。口語訳聖書では、「わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」と訳されています。神が人をお造りになった目的は、神の栄光を現わすためであることがわかります。
ところが、人は罪を犯したために神の栄光を受けられなくなっていました。神との断絶です。神を認めず、希望もなく、神の素晴らしい祝福をも拒絶するような者だったのです。神の栄光を現わすことなどとは遠い者でした。かえって罪の中に神を悲しませるような生き方しかできないような者でした。
神は御自分の方法で救いの道を現わして下さり、人を神との正しい関係に引き戻して下さいました。それは、イエス・キリストの受肉と、十字架の受難によってでした。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉の割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けして取り除いてくださいました。」
(コロサイ2:11−14)
創世記17章で、神はアブラハムにあなたとあなたの子孫の神となるという契約をされ、それは永遠の契約だと約束されました。そして、割礼を契約の印とされたのです。これが肉の割礼です。ユダヤ人はアブラハムの子孫であることを誇りに思っていました。割礼のない異邦人は、神とかかわりのない者とされたのです。しかし、キリストの十字架によって、ユダヤ人も異邦人も関係なく救われる恵みの時代となり、肉の割礼は無用になりました。「割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)とあるのです。罪から解放されて、愛の実践を伴う信仰によって生きる事こそ、キリストの割礼であり、キリストの命に生かされている者の実です。罪と咎はキリストと共に十字架に釘付けされてしまった事は、神の深い愛によるものです。
パウロは、神を「わたしの神」(4:19)と言っています。主イエスを信じた時から、神は「わたしの神」となってくださいました。私たちを「神の子」としてくださったからです。父なる神の子として、「アバ、父」とお呼びして近づき、臨在に触れる事ができるのです。聖なる神にキリストを通して近づくことができるのです。
救われて共に神の子とされて、「わたしたちの神」に賛美と栄光をささげられることは言葉に言い表せない大きな喜びです。
「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(4:20)神の栄光を褒め称える祈りです。
クリスチャンは、アーメンと一日に何度も唱えます。
祈るたびにアーメンと言うのです。これは、「本当です。その通りです」という意味です。主イエスは、「アーメンである方」(黙示3:14)と呼ばれています。主イエスは真実な方、アーメンである方です。私たちがアーメンと言う時、それは、主イエス・キリストのお名前を唱えていることになります。アーメンとは、私たちの信仰の告白であり、救いの確信と感謝の告白なのです。ですから、口先や不確かな思いで口にすべきではありません。心から主イエスを信じ、その通りですと告白するのです。
主イエスキリストの十字架の犠牲によって、聖なる者とされ、義とされた者は、神の栄光を表すという人生の目的が定まりました。日々すべてが神の栄光となるように祈り求めて生きましょう。
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(Tコリント6:19、20)




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