阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年6月10日
わたしの許に
マタイ11章25-30節

 今日の御言葉は、主イエスの祈りから始まっています。
主イエスはガリラヤの町、カファルナウムを拠点として、神の国を宣べ伝え始められました「悔い改めよ。天の国は近づいた」
(マタイ4:17)
主イエスは、ペテロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネなど弟子たちを召され、ガリラヤ中を巡り歩いて伝道なさいました。主イエスは、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:35、36)とあるように、町々村々で救いのためにお働きになりました。
11章25節に、「そのとき、イエスはこう言われた」とあります。その時とは、悔い改めようとしない町を叱られた後です。もちろん町とは、町に住む人々を現わします。ガリラヤを巡られて福音を伝えたのに、悔い改めようとはしなかったのです。悔い改めるとは、主イエスをキリストと信じ、生き方を変える事です。主イエスを信じて従う事です。
コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの名前が挙げられて叱られました。また、カファルナウムで行われた主の御業がソドムで行われたら、ソドムは必ず悔い改めたに違いないと言われたのです。ソドムは、創世記18章に出て来るどうしようもなく悪い町で、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」(創世記18:20)とあり、アブラハムは、正しい人が50人いたら、45人いたら、40人なら、30人では、20人なら、10人ではと、滅ぼされないよう神に願い、神は10人の正しい人がいたら滅ぼすことはないと約束されたのに、その10人がいなかったのです。それほどひどい罪の中にある町でした。しかし、そのソドムが悔い改めるほどの御業がカファルナウムでおこされていたのに、カファルナウムは悔い改めないと主イエスは叱られたのです。
その時、主イエスは祈り始まられました。「天地の主である父」(マタイ11:25)と呼びかけられました。「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して幼子のような者にお示しになりました」(11:25)これらの事とは、主イエスの福音です。主イエスの福音は、知恵があると思っている者や、知識を誇る者には受け入れられないものであり、幼子のように心の素直なへりくだる者に示されたのです。
昨日は、三浦綾子読書会が行われました。矢嶋(やじま)梶子(かじこ)伝「われ弱ければ」を学びました。三浦綾子さんはこの著作を小説のようで小説ではない。伝記のようで伝記ではないと語っています。ただ、矢嶋梶子という人物を伝えたかったとあります。明治の男尊女卑の時代に、酒乱の夫に苦しめられ、十年忍耐したのですが、心も体も疲れ切ってやがて離縁することになりました。その後上京し、ミッションスクールの教師となり、女子学院院長や、キリスト教矯風会の初代会頭としてめざましい活躍をする女性です。反面、人には言う事の出来ない罪の中に苦しまなければなりませんでした。罪を公に告白しないという批判が生涯浴びせかけられましたが、梶子は教会に通い、イエス・キリストを心に受け入れ、罪赦された人がどのように歩むかという姿を見せたのです。自分を治められないほど弱い人間であることを自覚し、悔い改めて神の子とされ、日々キリストを見上げ、なすべきことをしていく信仰の姿勢を貫き通しました。幼子のような心をもって主イエスを受け入れたのです。人として、また教師としての生き方がまったく変わりました。
人は、神の前に自分を置き、心を神に向ける時、自分の本当の姿が分かります。自分は強く賢い人間であると思っていると、神の愛や恵みはわかりません。自分の罪深さ、弱さを素直に認め、主イエスの十字架の救いを受ける時、主イエスの力強い御手の中に置かれている自分を見出すことが出来ます。
主イエスは父なる神に、父のほかに子(イエス・キリスト)を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はないと言われました。イエス・キリストを通して真の神を知ることが出来るのです。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたが私を知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(ヨハネ14:6−8)と教えて下さいました。
イエス・キリストを信じる者は、主イエスを通して既に父を知る者とされたのです。幼子のような者に福音が示された事は父なる神の御心でした。
そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28−30)とお教えになりました。
この御言葉は誰に語られたのでしょうか。「疲れた者、重荷を負う者」に語られました。人は、さまざまな問題に苦しむことがあります。自分の手に負えないような問題を抱えることもあります。誰でも苦しい事や嫌な事から逃げ出したいと思うのですが、苦しみも重荷も、すでに解決策が整えられています。そして、それは、真の神、イエス・キリストを体験するチャンスとなるのです。
主イエスは、「わたしのもとに来なさい」と招かれています。重荷に苦しむ者は誰でも私のところに来なさいと言われるのです。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(Tペトロ5:7)
何もかもすべて神様に渡してお任せしてしまいなさい。なんと素晴らしいことではありませんか。全能の神が解決してくださるのです。必要なのは、幼子のような信仰です。重荷を委ねられないのは信仰ではありません。祈りながら導きを求める事が大切ですが、委ねられる信仰は素晴らしい結果をもたらします。心を休ませる魂の平安です。
また、主イエスは「わたしの軛を負え」と言われました。軛など見たこともない人がほとんどだと思います。家畜の首にかけて二頭をつなぐ道具です。
主イエスの軛は、苦しいものではなく、負いやすいとあります。体にきちんと合うように作られていて、首を傷つけることなく守り、負いやすく軽いのです。主イエスの軛とはどのような者かを考える時、それは、主イエスが教えられているように歩むことであると気づきます。
主イエスは自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさいと教えられました。それは、犠牲の愛、アガペーの愛をもって生きる事を教えておられるのです。主イエスの愛の軛を負う事です。この軛は軽く負いやすいと主は言われるのです。
さらに、「わたしに学べ」と言われています。主はご自分を「柔和で謙遜な者」と言われました。柔和と謙遜は主イエスの品性です。主イエスは神であられるのに、僕の姿をとられ、へりくだって、十字架の死に至るまで従順でした。
私たちには関係ないのでしょうか。罪しか持ちあわせていないような私たちにも、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるものです」(Uコリント3:18)という約束が与えられています。主の御霊の働きにより、主イエスと同じ姿、すなわち品性が造られていくのです。主イエスの品性を持つクリスチャンとして成長するのです。
十字架で罪赦された者は、だれでも主イエスの許に行くことが出来ます。これが第一歩です。魂の休みが与えられ、心も体も新しい力を頂くことができます。
今、あなたの重荷は何ですか。主イエスに委ねる信仰を持ちましょう。御言葉を信じましょう。生きておられる神、主イエスを体験しましょう。
私たちは、御霊によって主イエスの軛を喜ぶ者とされ、主イエスと同じ姿(品性)を整えられている者であることを感謝しましょう。
私たち一人一人を通して主イエスが現わされることを感謝しましょう。
「あなたの重荷を主に委ねよ 主はあなたを支えてくださる」
(詩編55:23)


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