阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年6月24日
きよさにあずかる
ヘブライ12章11-14節

 6月18日朝、私たちは大きな地震を再び体験しました。1995年に阪神淡路大震災が起こり、尼崎市は震度6といわれました。今回は震度5弱だそうですが、大きな揺れでした。教会も、皆さんも守られて、きょうも変わらずに礼拝出来る事は本当に感謝なことです。日本は地震大国で、いつどこで大きな地震がおこるのか予測できないところがあります。いついかなることに遭遇しても、創造主の御手の中にいられることはなによりも幸いなことです。
私たちは日常が崩れる時に、自分の信仰について思いめぐらすことができます。ヘブライ12章には、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」(ヘブライ12:5−7)とあります。この御言葉は箴言3章11、12節の引用です。
人が思いもしないような苦難にあう時、その意味が分からずに苦しみます。もがき苦しむような思いをするのです。なぜ、震災にあうのか。なぜ病気で苦しむのか。なぜ、なぜと思います。
それは、私たちの救い主を仰ぎ、御言葉を思い出し、待ち望む時であると考える事ができます。
神は、私たちをご自分の子とされ、愛しておられます。神の子として神の栄光を現わし、最後まで従えるように、訓練なさいます。
しかし、神はその子が耐えられないような訓練はなさいません。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Tコリント10:13)
耐えられないような試練はお与えにならず、試練と同時に耐えられるように逃れる道をも与えて下さるのです。
また、神は、私たちをご自分のきよさにあずからせるために訓練されるのです。
創世記27章以下には、長子の祝福を奪い取ったヤコブの出来事が記されています。アブラハムに与えられた約束の子イサクには、双子の男子が与えられました。長男がエサウ、次男がヤコブです。ヤコブはエサウのかかとをつかんで生まれてきました。成長したエサウは、霊的な祝福に無頓着で、狩りから空腹をかかえて家に帰った時、ヤコブが作っていた料理が食べたくて、長子の特権と交換してしまいました。自分が受け継ぐべき父親の財産と、神の祝福の一切を、「パンとレンズ豆の煮もの」と交換してしまったのです。
エサウに関しては、「だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきです。あなたがたも知っているとり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです」(ヘブライ12:16,17)と、永遠の神の祝福を、この世の儚いものと取り換えるような愚かな事はしないようにと警告しています。
ヤコブは、母リベカの忠告もあって、エサウの怒りを逃れて遠くハランに逃れていきます。伯父ラバンのもとで20年間過ごした後、妻子と財産を携えて故郷へ帰ることになります。故郷には兄エソウが待ち受けているのです。
ヤボクの渡で、妻子を先に渡らせて、ヤコブは一人残っていました。
そこへ何者かが現れて夜明けまでヤコブと格闘をしました。その人は、ヤコブの腿の関節を打ったので、関節がはずれました。ヤコブはその人に祝福を求めました。神の人が、「お前の名は何というのか」と尋ねたので、「ヤコブです」と答えました。
名前とは、単なる名ではなく、その人の本質、存在をあらわすものです。ヤコブは「騙す者、押しのける者」という本質をもっていました。ところが、この時、「イスラエル」という名前をもらいました。イスラエルとは、神が支配されるという意味があります。人間的で、ずるく、自分の力で押し通してきたヤコブは砕かれ、神の支配によって生きる者に変えられました。故郷へ帰る前の神の訓練でした。痛みが伴ったのです。ヤコブは今まで自分の能力に頼ってきたこと、また、持っていたプライドなど、すべてが砕かれました。自分の能力ではなく、神により頼むべきであることを悟ったのです。騙す者、押しのける者」から、「神に支配される者」に変えられました。神の聖さにあずかる者となりました。エソウとも和解することができました。エソウと再会するまで、このようにしたら、あのようにしたらと心の中で考え、苦しんでいたことが嘘のように消え去りました。ヤコブからイスラエルになって、心は神の平安に支配されたのです。
もう一つの訓練の目的として、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:11)とあります。
嬉しくなく、悲しいものが鍛錬であるけれど、鍛え上げられた人々は、神の御心の中で平安というすばらしい実を結ぶことができます。
私たちは、もうしばらくこの世で生きていきます。それは、多くの証人に囲まれて競技場で走っているようにたとえられています。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブライ12:1)とあります。
円形競技場の客席には、信仰の生涯を全うした人々が証人として囲んでいます。その中で今、私たちは信仰のコースを全力で走っているのです。それは、自分に定められているコースです。主イエスが与えて下さっているコースです。
走るには訓練が必要です。足腰を鍛えて持久力を造らなくてはなりません。少し走ってくたびれてしまうとゴールできなくなってしまいます。
わたしたちが完全に走り切るために天の父は訓練してくださるのです。苦難があることで信仰は強くなります。それは喜ばしい事ではなく、悲しい事と思えるかもしれません。しかし、信仰の創始者であり、その完成者である主イエスを仰ぎながら忍耐して走るなら、必ず最後まで走り通すことができるのです。
罪が絡みつき邪魔するかもしれません。心の中にそんなにしなくてもよいのではないかという声が聞こえるかもしれません。心に重荷を持っていては走れません。執拗な罪も重荷も肉の弱さもかなぐり捨てて、信仰のコースを走り続けましょう。神の鍛錬をまたとない素晴らしい機会として喜んで受け入れましょう。
苦しみは神と私たちを遠ざけるのではなく、神との交わりを密接にするものです。
もし、今、心の手が弱くなり、萎えているようなら、また、膝が弱っているなら、まっすぐにするようにと、御言葉は勧めています。全能の父の力が及び、満たし、力を与えて下さいます。
踏み出すこともできないように弱っている者の足を癒し、「自分の足でまっすぐな道を歩く」ようにと教えられています。
まっすぐな道とは、神の御言葉に導かれる命の道です。
「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」
(ヘブライ12:14)
 主イエスの十字架により、罪を清められて、聖なる者とされたことを感謝します。聖なる者とされた祝福の印は、すべての人との平和です。神との平和を得た者は人との平和を持つことができます。
主イエスを慕い求め、聖なる道、御心の道を更に歩み続ける者でありたいのです。神の子とされ、「アバ、父」と呼びながら歩み続けられることを心から感謝します。


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