阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年7月8日
真の豊かさ
コリントの信徒への手紙U6章3-10節

 西日本各地では大豪雨の被害が拡大しています。家が流されたり、押しつぶされたりして、被災されている多くの方々が、速やかに助けられるように、祈り続けて参りましょう。
先に救いを受けた私たちは、いかなる時にも神を避け所とする信仰に生かされたいと思います。私たちの神は、苦難の時にこそ必ず共におられて助けて下さるお方です。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」(詩編46:2−4)
順境の時も、逆境と思う時も、生きておられる助け主を頼りとして進んで行きたいと思います。
主イエス・キリストを信じた者は、その身分と働きが全く変わります。
十字架の贖いで罪が赦され、神の子という身分を与えられました。
全能の神、天地万物をお造りなった神を、「アッバ、父」(ローマ8:15)と呼んで近づくことができます。キリストと共に神の相続人とされて、御国の栄光を継ぐ者とされました。
また、その働きは、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物」(Tコリント3:9)とあるように、御言葉が蒔かれて豊かな祝福の実を収穫する神の畑であり、また、神の栄光の御霊が宿る神の建物とされて、神の救いの御業のために神と共に働く者とされたのです。
 これらの事を心の中心に置いて生活する時、どのように忙しく、慌ただしくしていても、キリスト中心の信仰は揺らぎません。
また、生活の煩雑さの中にも絶えず主の助けがあることを知ることができるのです。信仰は第一のものを第一にすることから始まります。
豊かさとはどのような事かと考えるなら、命を救うためのシステムが整えられていることといえるのではないでしょうか。
 私たちは、水道の蛇口から水や湯が出るのが当たり前という生活をしています。ガスも電気も便利に使っています。この暑さの中、電気冷蔵庫がなかったらどれだけ大変かを想像します。
尼崎市の上水は、淀川から取水されて、神崎浄水場でオゾンと活性炭で高度浄水処理をされて、各家庭や職場に安全、安心な水として供給されているそうです。
その美味さをPRするためか、「あまのお水」と名付けて490mlのアルミ缶ボトルを作り、災害用に備蓄したり、イベントで配布したりするそうです。きれいな水に困らないのは、命が守られる豊かさと言えるのではないでしょうか。
また、救命のシステムができつつあるのも豊かさだと思います。
尼崎総合医療センターには、救命医療器具を装備したドクターカーが備えられていて、要請されると、救急車と共にすぐ駆けつけて医師が救命に当たってくれるのです。
 しかし、人はどれだけ環境が整っても、生活が便利になっても、本当の豊かさを持つことができません。なぜなら、人は神によって造られた者だからです。物質的なものの充足だけでは心は満足できません。
生活は豊かで便利でも、心は満たされないというバランスのとれない生き方になってしまいます。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えられている通りなのです。
真の神に造られた人間は、真の神の御言葉によってはじめて生きることが出来るのです。
 パウロは、厳格なファリサイ派の一員でした。ダマスコ途上で主イエスに会わなかったら、ファリサイ派の重鎮として何不自由なく、また、この世の名誉の中に尊敬を勝ち取って生きて行ったことでしょう。
ところが、主イエスに出会い、悔い改めて使徒として用いられるようになってからは、厳しい宣教の生涯を送ることになりました。
パウロは、「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰り、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています」と記しました。
どのような苦難にあっても、神に仕える者としての実(じつ)を示すためであり、宣教の為であると言っています。
神の力により、聖霊の実を結びつつ神の働きに努めたのです。神の武器である信仰と、御言葉を両手にとって、称賛を得る時も、辱められる時も、どんな時も誠実に神に仕えてきたと証しました。
世の権力を持ち、人々の賞賛を浴びながら生きることもできたのに、鞭打たれたり、投獄されたり、飢えたり、石で打たれて死んだと思われたり、大変な生涯だったのですが、この世の栄誉よりも、神の栄誉を選び、満足だったのです。常に神と共に働くことが出来たからです。
その姿勢は生涯変わりませんでした。栄誉を受ける時も、辱めを受ける時も、悪評を浴びる時も、好評を博する時も、神に仕えて行く者としての姿勢を変える事はありませんでした。
 キリストの救いを伝えようとすると、ある人は信じようとはしません。人を惑わす者と思われ非難されるかもしれません。しかし、その働きは真実であり、誠実であることは実証されるのです。人に知られていないようであっても、神と、神の民からは知られているのです。
パウロは何度も死に直面するようなことがありました。また、キリストを宣教するという理由だけで「罰」を受けても生きているのです。
しかし、どのような事があっても、信仰に敗北はありませんでした。
「悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(Uコリント6:10)と凱歌をあげています。
人生には悲しみがつきものです。ありえないようなことが起こります。
ある家の家族の話を聞きました。両親と4人の子供が貧しいながらも暮らしていたのです。ところが、長男が21歳で亡くなり、末っ子の妹がその翌年18歳で亡くなってしまいました。4年後に父親が急に亡くなって、6人家族が3人家族になってしまいました。
貧しさは、何とか乗り越えられるかもしれません。しかし、残された者たちの心を、家族を失ったという悲しさが覆ってしまい、悲しみという窮乏を常に持ち続けなければなりませんでした。重く悲しい心をもって生きていかなければなりませんでした。
 人の心を新しくし、癒して下さる方は、イエス・キリストだけです。
人は多くの悲しみを持ちます。しかし、主イエスはその心に永遠の慰めと希望と喜びを与えて下さるお方です。
聖霊の実は、「愛、喜び、平安」です。主イエスの慰めは人を生かします。パウロは、常に喜んでいると告白しました。
貧しいようでとありますが、本当に金も銀もありませんでした。しかし、多くの人を富ませたのです。キリストという宝を持つ者となりました。多くの人をキリストに導き、その人々に救いという、なくてならないものを受けるように働きかけました。
パウロ自身も、無一物のようで、すべてのものを所有していると宣言しました。この世の富は何も持ちませんでしたが、イエス・キリストご自身を持つ者となったのです。
聖書は、私たちに、真の豊かさを教えています。真の神が共に歩んでくださる事、そして、「わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(フィリピ4:19)という御言葉によって生かして下さるからです。神が私たちに必要なもの一切を、惜しみなく豊かに与えてくださるという意味なのです。
私たちの霊的な必要を満たして、信仰を励まして下さり、生活の一切も顧みて豊かに満たして下さるのです。
イエス・キリストの救いと恵みに預かることが出来たこと、これこそ真の豊かさであることを感謝し、神の栄光のために用いられていきましょう。


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