阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年7月15日
幼子のような者
ルカ10章17-24節

 西日本各地では大豪雨の被害が拡大しています。被災されている多くの方々が、暑さに苦しんでいます。速やかに助けられるように、続けて祈りましょう。
さて、主イエスは72人を、宣教のために任命し、ご自分が行くつもりの町々、村々に、先にお遣わしになりました。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ10:2)と教えられ、宣教のために必要な事を教えられて、72人を送り出されました。
宣教に遣わすのは、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(ルカ10:3)とも言われて、それでも、「財布も袋も履物も持っていくな」と教えられました。危険な所へ行くなら、それなりの準備が必要なのではないでしょうか。しかし、主イエスは、何も持っていくなと言われ、途中でだれにも挨拶するなと教えられました。あれこれと世の事で心を使う必要はないと教えて下さったのです。
これらの教えは、宣教という神からの使命を全うするため、そして、神ご自身が共におられることを体験するためでした。
一途(いちず)に神の国のために働くことを教えられて、72人は出発しました。
その結果はどうだったでしょうか。72人は喜んで帰ってきました。主イエスの名を使うと、悪霊どもが屈服する。主イエスの名の権威は何よりも偉大なのです。財布も何も持たなくても、主イエスという権威を持つ者に、誰も害を加える事はできません。
しかし主イエスは、本当に喜ぶべきことをここで教えてくださいました。大きな業のために用いられたこと、それを喜んではならない。あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。これこそが最大の喜びであると教えられました。
私たちは日々何を喜びとしているでしょうか。祈りが聞かれることは、本当にうれしい事だと思います。毎日様々な祈りをささげます。祈りは神との会話で、神からの語りかけをまず聞くことと知っていても、日常の必要を祈ることも多いのではないでしょうか。病気の癒し、魂の救い、生活の様々な事、目の前にあるチャレンジ等々、祈るのです。
祈りは聞かれます。距離も、時間も超えて神は答えられます。
世界中で祈っていたことと思いますが、先日、タイの洞窟から出られなくなっていた13人のサッカーチームのメンバーとコーチが助け出されました。私たち、婦人宣教会でも心を合わせて祈りました。救いの手が届き、全員が無事に救出されたとのことでした。暗い洞窟から出られて、清潔な病院で手当てを受けられて本当に良かったと思います。
しかし、彼らの救出のために一人のダイバーが犠牲になったのです。酸素が足りなくなって命を落としました。それは、丁度主イエスが十字架で命を投げ出して、全世界の救いとなって命を与えてくださったようです。
祈りが聞かれることは喜ばしい事ですが、本当の喜びは天に名が記されていることであり、主イエスの十字架によって罪が赦され、永遠の命を頂いたことなのです。
私たちの名は天に記されています。主イエスの十字架の血によって贖われた者、罪赦された者は、命の書に名が記されています。永遠の救いを頂いた証拠です。救いを確信し、それがすべての喜びであり、希望と力なのです。
 主イエスを信じながらも、私たちは弱さのために罪を犯してしまう事があるかもしれません。人を責める時に、一番効果的な事は、「あなたには愛がない」と責める事です。サタンは、この人は愛から遠いから、救われた者とはいえないと責め立てるかもしれません。心の中に苦い思い、人を裁く思いがあるから、クリスチャンではないと責めるかもしれません。
しかし、どのように弱くても、罪があっても、十字架の贖いは完全であって、主は、「あなたはわたしのものだ」、「あなたは贖われた」と励まし、救いの確信を与えて下さいます。
これが天に名が記されていることが喜びなのです。
この喜びがあるなら、生活の中でどのようなことがあろうとも、だれも害を加える事はできません。私たちは、その証を持つことが出来ます。
21節以下で、主イエスは聖霊によって喜びにあふれて父なる神を崇めました。その時とありますから、あなた方の名が天に記されているということとつながっています。
主イエスは、これらの事を、つまり、救いについて、父は知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に示して下さったことを褒め称えたのです。
賢いと自認し、自分の力を確信している者たちは、主イエスの救いを受け入れることができませんでした。
知恵も知識も大切なものではあります。しかし、御言葉はそれを誇りとし、それのみに頼る事を戒めています。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5,6口語)
全生涯において、主イエスをまず認めて、信じ、より頼むこと、それが何より大切なのです。それは、まさに「幼子のような者」と言えるでしょう。
幼子のような者の本質は、高慢ではないという事が出来ます。72人は本当に神の国のために用いられました。主イエスの名によって働くとき、悪霊さえもが屈服したと報告しました。
彼らが「私は本当に用いられた者だ」と言って、自分の力で何かできたように思ってしまったらどうでしょうか。それは思い違いであって、たちまちに行き詰ってしまう事でしょう。
主イエスの働きに用いられ、天に名のある者であることを確信し、身を低くして従う時に、神の業に用いられるのです。
主イエスは、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(ルカ10:22)と祈られました。
これは、救いについての事は、イエス・キリストに任されており、主イエスを通して父である神が示され、人は救いにあずかるのだということなのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければだれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)とあるように、主イエスを通して父を知り、身許に導かれるのです。
さらに、主イエスは、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(ルカ10:23、24)と言われました。
 主イエスを信じて天に名を記された者は、多くの王や預言者が見たい、聞きたいと思っていたものを見る事ができる、聞くことができるのです。
ヘブライ人への手紙11章39節にも、「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れることができませんでした。」とあります。
多くの信仰者が、見たい、聞きたいと願った、主イエスの十字架の救いを、今私たちは自由に見ることが出来、聞くことが出来、受け入れることができるのです。
 私たちが宣べ伝え、受け入れるこの救いを妨げる存在は既に無くされています。サタンは天から稲妻のように落ちたと主イエスは証言なさいました。
 幼子のように主イエスを信じ、受け入れ、より頼みながら、一歩一歩歩み、恐れずに福音を語りたいと思います。
幼子は、その時の時間や、都合、状況にかかわらずに伝えたいことを伝えます。今、必要を伝えようとします。
 主イエスの幼子として、まずどのようなときも福音を伝えたいのです。時や場合を考慮しすぎることなく、今というチャンスを逃さずに、主イエスの十字架とその贖いの恵みを伝えるなら、必ず御業は起こされます。
救いの喜びの中にあることを心から感謝し、主イエスを見上げましょう。


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