阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年7月22日
祈ることができる
ルカ11章1-4節

 主イエスを信じて救われて、数え切れない恵みの中に生かされていることを感謝します。
日々の生活の中で幸いなのは、祈ることを教えられ、なくてならない大きな力と慰めを得ている事ではないかと思います。これはすべてのクリスチャンに共通することでしょう。
主イエスは大変に良く祈られる方でした。ゲッセマネの園で血の汗を滴らせて「わたしの願いではなく御心を行って下さい」と祈られて、十字架に向かわれました。
弟子たちは祈られる御姿に心を引かれたのです。
ある時、主イエスが祈っておられて、祈り終えられた時、弟子の一人が、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と、お願いしました。
弟子たちは祈ることを知らなかったのでしょうか。当時ユダヤ人は、朝の9時、昼2時、午後3時に祈る時を大切に持っていました。当然祈っていたのです。しかし、弟子たちは、主イエスの祈る姿に自分たちの祈りと違うものを見出したと考える事ができます。
祈りは、神様との会話ですが、主イエスの祈りは、父なる神と密接な関係の中に会話しているという様子が見てとれたのです。
先週、ルカ10章21節以下で、主イエスが聖霊によって喜びにあふれて、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これらは御心にかなうことでした」(ルカ10:21)と賛美された様子を学びました。
主イエスは、「父よ」、「父よ」と呼びかけておられるのです。弟子たちもこの様子に気づいていたことでしょう。主イエスが、父に呼び掛け、父と密接に語り合っておられる様子に気づいたのでした。
ですから、主イエスに今まで自分たちが祈っていたような祈りではなく、「あなたが祈られているような祈りを教えてください」とお願いしたのです。
主イエスは、「祈る時には、こう言いなさい」と、主の祈りを教えてくださいました。短い祈りですが、このように祈りなさいと示されたのです。まず、「父よ」と呼びかけました。
私たちは、天地を創造され、治めておられる真の神を、「父」とお呼びすることができるのです。
主イエスを信じて、その十字架の贖いを受ける以前は、「神なく、望みなく、さまよいし我も」(聖歌451)とある通り、真の神と関係のない者であり、永遠の救いの望みもなく、罪の道をさ迷っていたものでした。自分の願いや希望はあっても、行き詰まりや、挫折の苦しみの中にもがきながら、どこかに救いはないものかと求めているのが、人の姿なのです。人は主イエスを心に受け入れるまで、魂の渇きを覚えながら進まなくてはなりません。
罪の解決が必要なのです。主イエスは、人の心から出て来るものが人を汚す罪だと教えられました。「みだらな思い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」(マルコ7:21、22)と教えてくださいました。また、肉の思いについて、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(ガラテヤ5:19−21)とあります。ノアの時代の人が考える事、計画する事、すべてが悪であったのと同じなのです。
しかし、神は救いの道を備えてくださいました。主イエスの十字架の贖いです。主イエスを信じて、罪を告白し、悔い改める者は、完全に罪を赦していただくことができました。「わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」(イザヤ44:22)と保証してくださいました。
主イエスの十字架によって、天地創造の神を、「父」とお呼びすることのできる神の子にしてくださったのです。
主イエスが父と密接な祈りをされたように、私たちも父に近づき、祈れることを教えてくださいました。父なる神と私たちの関係は、「アッバ」と「子」の関係なのです。
主が教えて下さった祈りは、簡潔な祈りです。しかし、大切な祈りです。
まず、父の御心を祈ることが教えられています。「御名が崇められますように。御国がきますように」(11:2)
私たちは、どうしても自分の必要を祈ることが多いのですが、主イエスは、まず神の御心を祈るようにと教えて下さいました。
「御名があがめられますように」とは、真の神様があがめられ、礼拝がささげられますようにという事です。また、いつでも、どのような時でも、真の神様を心の中にお迎えし、意識して生活し、従っていく事なのです。
続いて、神の国が来ますようにと祈ることが教えられています。「御国」とは、神の御支配があるところを指します。私たちの心を御心で御支配くださいと祈ることです。ですから、この祈りの最初は、真の神を神として認め、崇め、信じ、受け入れ、その御心がなりますようにという祈りなのです。
主イエスは、まず天の父の御心を祈るようにと教えてくださいました。
そして、自分たちの必要を祈るのです。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」。毎日必要を満たして下さいという祈りです。明日の食物、明後日(あさって)、一か月、一年中ではなく、今日の糧を与えてくださいという祈りです。天の父は私たちに必要なものを毎日備えて下さるお方なのです。主イエスは明日の事は思い煩うなと語って下さった方です。
人は食物の種を無から作れません。この命の種は神からの贈り物です。日々口にすることのできる食物は、神からの物であることを感謝し、食前の祈りをします。
また、主イエスは赦すことについて教えられました。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらええる。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返されるからである」(ルカ6:37−38)自分の量る秤について考えていかなければなりません。許すことについて大きな秤が必要なのです。
マタイ6章15節には、天の父は、あなた方が赦さなければ赦されないと、さらにはっきりとあります。
私たちを主イエスから引き離そうとする誘惑がやってくるかもしれません。サタンが一番喜ぶ事は、私たちが主イエスから離れ、信仰を無くすことなのです。恵みに留まるのです。堅く立って一歩も引かずに主イエスに従う事、そのために更に祈る必要があります。主の祈りは「わたしたち」の祈りです。心を合わせて祈る祈りです。
祈りは聞かれます。あるクリスチャンの夫人が、夫の救いを祈り続けました。夫になかなか御言葉を聞く機会はありませんでした。ある時、食事のたびに主の祈りを祈ろうと思いました。心からの祈りをささげつづけました。この祈りによって、夫の心に変化が起こりました。夫は家にいましたから、1日に3回は妻が祈る主の祈りを聞くわけです。
やがて祈りを覚えて、妻と一緒に祈るようになりました。そして、主イエスを信じるという信仰を告白することができました。
祈りは聞かれます。私たちが天の父とすばらしい関係を持ち、会話し、祈る時、だれかがその祈りを教えて欲しいと願う事があるのです。
そして、神の国の一員となり、主イエスの救いを賛美し、崇めながら永遠の命を喜ぶ者となるのです。
天の父に祈りましょう。主イエスの名によって祈りましょう。聖霊は祈りを導いてくださいます。私たちは祈ることが出来るのです。


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