阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年7月29日
御言葉と祈り
Tテモテ2章1-8節

 祈ることを知らないクリスチャンはいないと思います。主イエスを信じ、救われた時から、祈る者にされました。また、主イエスを信じる時にも、「主よ、あなたを救い主として信じ、受け入れます」という祈りをしたのです。
聖書は、祈りについて私たちに教えています。パウロは、若い伝道者であるテモテに、祈りについて詳しく教えました。
主イエスに従い続け、与えられている使命と信仰を全うするために必要なものとして、祈りを教えたのです。信仰と宣教のために「雄々しく戦う」ために祈りが必要なのです。
そこで、「まず第一に勧めます。」(Tテモテ2:1)とあって、第一に必要な事が示されているのです。
「願い」「祈り」「執り成し」「感謝」をすべての人のためにささげなさいとあります。
祈りについて、4つの言葉で教えられています。「願い」とは、必要が満たされますようにという事で、神に対しても、人に対しても使う事が出来る言葉と考える事ができます。「祈り」は、神に対する祈りです。また、「執り成し」とは、自分以外の誰かのために祈ることです。「感謝」は、すべての事に感謝することなのです。
そして、2節では、王たちや、高官のためにも祈ることが教えられています。クリスチャンを迫害するような支配者たちの為にも祈れと教えられています。
政治は人の生活に深くかかわります。誰でも平和と安定を望みます。ですから、政治に携わる人たちが常に平和を追求するようにと祈らなければなりません。神の御心は平和であることです。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(ローマ14:17−19)
もし、平和が損なわれるなら、落ち着いた信仰生活を続ける事が出来なくなるかもしれないのです。
クリスチャンは、すべての人々のために平和であれと、執り成しの祈りをする者であるべきです。
それは、救われる者が起こされていく事に繋がる事なのです。
神の御心は、すべての人が主イエスの救いを受ける事です。クリスチャンは救いを祈るために召されているのです。
「神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Tテモテ2:4)本当に素晴らしい御言葉です。神の望みはすべての人が救われる事なのです。
世界中のすべての人が主イエスの福音を聞き、罪を悔い改めて救われる事、これ以上にすばらしい事はありません。
人は罪深いのです。自分中心で、頑固です。自分の価値観で生き、心を変えようとしないものです。
アブラハムの執り成しの事はたびたび取り上げられます。アブラハムは神の使いにより、約束の子イサク誕生の予告を受けます。それと共に、あまりにも罪深いソドムとゴモラの滅亡の予告も受けるのです。
(創世記18:16以下)
「アブラハムはなお、主の御前にいた」(創世記18:22)という御言葉があります。これは、アブラハムが常に神と共にあり、自由に祈っていたという事です。「あの町に正しい者が50人いるとしても、その人たちを悪い者と一緒に滅ぼすのですか。あなたがなさるはずはございません」と祈りました。神は「その50人のために滅ぼさない」と言われました。アブラハムは、「45人では」、「40人では」、「30人しかいないかもしれません」、「20しかいないかもしれません」「10人しかいないかもしれません」と執拗に祈り、神はそのたびにその人々のために滅ぼさないと約束されました。「主はアブラハムと語り終えると、去っていかれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」(創世記18:33)とあります。どれほど神と親しい交わりをもっていたかがわかる御言葉です。私たちは、これほどまでに神に迫る執り成しをしているだろうかを考えてみなければなりません。
この執り成しにより、アブラハムの甥であるロトは逃れることが出来ました。後ろを振り向くなと厳命されていたにもかかわらず、振り向いてしまったロトの妻を除いて、「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」(創世記19:29)とあるように、アブラハムの必死の執り成しで、ロトと娘は救い出されました。
 私たちの執り成し手は、主イエス・キリストです。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と、ご自分を十字架に架けた人々のために祈られました。そして、今に至るまで、「彼らを赦して下さい」と執り成し続けて下さっているのです。
 主イエスの十字架によって、すべての罪が赦され、解放され、永遠の命を生きることが出来るという素晴らしい救いの時代が今なのです。
主イエスは、神と人との仲保者となられ、すべての人の贖いとなって下さいました。パウロは、この仲保者であるイエスを宣べ伝えるために、宣教者となり、使徒とされ、また、信仰と真理を教える教師であると証ししています。
 8節の御言葉に注目したいと思います。「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず,清い手を上げてどこででも祈ることです」
たしかに、「男は」と記されています。しかし、ガラテヤ3章26節以下には、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とあって、救われた者は皆キリストを纏って(まとって)いるのであって、信仰において、祈ることにおいて、救いにおいて、身分や性差や国籍は関係ないとあるのです。皆キリストを着る者であって、信仰によって一つにされたのです。
ですから、イエスをキリストと信じた者は、皆どのように祈るのかを教えているのです。男であれ女であれ、人の怒りは神の義を実現しません。怒りや争いの心を持ったままでは祈ることはできません。
 ユダヤ人は両手を上げて祈りました。しかし、その手は清い手であるべきなのです。「耳をそむけて律法を聞かない者は、その祈りでさえも憎まれる」(箴言27:9)とあります。神の言葉を聞こうとしない者の祈りは退けられるのです。
 十字架の前に、まず罪を悔い改め、聖い御霊に満たされ、御言葉に満たされてこそ、清い手を上げることが出来ます。即ち、清められた心で神に近づき、御心に適う祈り手となることができるのです。
 ヤコブの手紙には、人の心について、「あらゆる汚れやあふれるほどの悪」と指摘しています。どうしようもないほどの罪があるのです。
それではどうしたらよいのでしょうか。それらの罪を素直に捨て去る事、心に植え付けられた御言葉を受け入れる事が教えられています。罪を捨て去る事は意思によります。主の十字架の前に罪を捨て、主に引き受けていただくのです。御言葉には魂を救う力があります。
 父なる神にどのような祈りをささげているのか、もう一度顧みましょう。そして、祈りと御言葉によって、日々神に仕え、祈りによって救われる者が起こされることを喜びとしましょう。
わたしたちが先に救われたのは、自分の為だけではありません。わたしたちが御心に適った祈りをささげる者とされて、救いの喜びが沸き上がるためであることを心に留めましょう。
「願い」と「祈り」「執り成し」と「感謝」とをすべての人々のためにささげていきましょう。
 十字架の血潮で罪を清められ、清い手をあげていつでも、どこでもすべての人の救いのために祈り続けましょう。祈りは必ず聞かれるのです。


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