阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年8月5日
信仰と希望と愛と
Tコリント13:4-7

 ある時、主イエスを試そうとして律法学者が、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねました。
主は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37−40)と教えてくださいました。
律法全体と預言者とは、聖書の事ですから、神を愛することと、隣人を愛することが聖書全体の教えであると言われたのです。
人は、理解される事、受け入れられる事、愛され、尊重されることを求めます。無視されたり、排除される事など望む人はいません。受け入れられないと思うと、心を閉ざしてしまう事も多いのです。
しかし、それは、常に他者の態度によって自分自身を評価するといった事に繋がります。人が良くしてくれたらうれしいし、力もでる。人に無視されたと思ったら、落ち込むといったようになってしまいます。
そのような生き方をしていては、常に人の目や反応に縛られてしまう事になるのです。
神様は人に個性をお与えになりました。同じ顔をした人はいません。また、指紋は一人一人違います。人の声にも声紋というものがあって、検査すると、一人一人違った形が現れることが分かっています。
私たちを創造された神は、私たち一人一人をありのままで愛して、受け入れて下さっていることを心から感謝したいと思います。
創造主である神が愛して下さる事と、受け入れてくださる事を忘れてはならないのです。
コリント一の手紙、13章は愛の章と言われて、結婚式では必ず読まれます。愛について教えています。この愛は、神の愛、アガペーの愛です。多くの知識を持ち、優れた業をしても、愛がなければ無に等しいと教えています。愛がなければ無益であると断言しているのです。
愛とは、「忍耐強い」「情け深い」「ねたまない」「自慢しない」「高ぶらない」「礼を失しない」「自分の利益を求めない」「いらだたない」「恨みを抱かない」「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Tコリント13:4−7)とあります。
アガペーの愛は、言うまでもなく神の愛ですが、パウロは、その愛を説くとき、主イエスの御姿を思い描いたに違いありません。なぜなら、主イエスは愛そのものであられたからです。
私たちは、生まれながらにアガペーを知りませんでした。しかし、アガペーを知ることは、「最高の道」(Tコリント13:1)であるとあります。
主イエスがどのようなお方であり、どのようにして歩まれたかを覚える事で最高の道を辿ることができます。
主イエスは忍耐強い方、情け深い方です。忍耐強いとは、寛容という意味であり、情け深いとは、親切をあらわします。罪人を受け入れ、共に食卓に着かれた方であり、豊かな赦しと癒しを与えてくださいました。
エリコで、徴税人の頭であったザーカイをお認めになり、家に泊まり、親しく声を掛けて下さいました。ザーカイは人々から疎まれ、空しい日々を送っていましたが、主イエスはお見捨てになりませんでした。
主イエスが受け入れて下さったので、ザーカイは本当の意味で生きることが出来るようになったのです。
主は、ザーカイの悔い改めをお聞きになって、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:9、10)と言われました。
主イエスほど、ねたまず、自慢せず、高ぶらない方はいません。また、ご自分の利益を求めたこともありません。
そもそも主がお生まれになったのは、ベツレヘムの家畜小屋であって、宿屋には泊まる余地がありませんでした。神の子がお生まれになったのは、最も低い所でした。また、その誕生を最初に告げられたのは、野にいる貧しい羊を飼う者たちでした。律法を知らない者、恵みから遠い者として蔑まれていたような者に、最初の喜びが伝えられたのです。
暗闇を照らす真理の光、救い主の訪れは、この世の最も低いと思われていたところに表されたのです。神は、高ぶる者を退け、遜る者に恵みを給うお方なのです。罪深い、最も暗い心に主イエスはお入りくださるのです。
へりくだって十字架の死に至るまで従順であったその御姿は、私たちの模範です。
愛はいらだたず、恨みを抱かない。心に寛容さがなくなると、人はいらだちます。この暑さでイライラしている人も多いかもしれません。物事が順調に進まないと、いらだつことがあるかもしれません。このいらだたないという言葉は、怒らないと訳す事も出来ます。「怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しません」(ヤコブ1:19、20)に通じる御言葉です。
また、「恨みを抱かない」とある、「抱く」という言葉は、経理を任されている人が、その入出金を忘れないように、きちんとノートに記録しておくという意味があります。
なにか問題が起きて、心に苦いものが残る時、それをしっかりと忘れないように記録しておくという事です。時々、その苦みを思い出してなぞる事などがあれば、「恨みを抱き続ける」という事になります。
主イエスは、十字架ですべての人の罪を身に受けてくださいました。
主イエスの十字架によって、私たちはすべての罪を赦していただきました。赦さない心を持ち続ける事は御心ではありません。
主イエスが私たちの心の罪をまったく拭い去って下さったように、私たちもきっぱりと恨みや憎しみは捨て去り、忘れる事を求めておられます。
愛は不義を喜ばず、真理を喜ぶ。神がお喜びにならないような事から遠ざかることが必要です。私たちの心の中にある事が、本当に神がお喜びになる事か、それとも自分を喜ばせるための欲かどうかをいつも考え、御心のなることを喜びとする姿勢を持つ。これは大切な事です。
愛は全てを忍び、すべてを信じ、全てを望み、すべてに耐える。
アガペーの愛を知り、信じる人はこのような力を持つことができます。
神は愛であることを確信して、忍耐することが出来、信仰と、希望を持ち続けることができる、そして耐える力を持ちます。
耐える力は希望に繋がります。ここで教えている、耐えるという事は、ただ単にことが治まるまでおとなしく待つという意味ではありません。
耐えながら、どのようにして克服していこうかと、事態を変えていく事に繋がります。
希望が見えないし、行き詰まりのようになっても、アガペーの愛は力と希望と忍耐に導びくのです。
愛は永遠に残るものです。この世のすべてが失われても、愛は無くなりません。信仰も希望も失われることはありません。最も大いなるものとして愛が教えられました。
この愛は、家を出て、放蕩の限りを尽くして落ちぶれ果てた息子を待ち続けた父の愛です。父親は毎日息子を待ちました。必ず帰ってくると確信して遠くから道を見続けていたのです。なにもかも失い、姿形も変わっていたであろうに、父はまだ遠くにいる息子を認めることが出来ました、アガペーです。憐れに思い、走り寄って息子を抱き、家に迎え入れました。この息子は、「死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった」と父親は表現しました。
価値のない、失敗した者、身勝手をした者、そのような者を父なる神は手を広げて受け入れて下さる、それが神の愛です。
神の愛が実を結ぶよう祈りましょう。神の愛を日々体現できるように求めましょう。何より、豊かに神の愛を受けている者であることを感謝し、信仰と希望と愛に満たされましょう。


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