阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年8月12日
忍耐と慰めを学ぶ
ローマ15章1-6節

 聖書は何を教えているのかを私たちは知っています。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37−40)
主イエスは、全存在をもって神を愛することと、隣人を愛することが聖書全体の教えであると言われました。
「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(Tヨハネ5:3)「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが神から受けた掟です」
(Tヨハネ4:21)とあって、神を愛するなら御言葉に従う事、兄弟を愛すことが示されています。
主イエス・キリストを信じ、贖われた者は、日々神の御言葉を守り、従う事が証となります。
ローマ15章1節には、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とあります。
パウロは、わたしたちは「強い者」であると書いています。
初代教会が建て上げられ、多くの人々が主イエスを救い主と信じました。その中には、主イエスの贖いを信じて、食物規定などの律法から完全に開放されたと確信する人々がいました。一方、主イエスを信じたのですが、律法の中にとどまっている人もいたのです。それが、14章1節に「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とあるのです。つまずきとならないようにする、そして、信仰の兄弟たちの平和や、互いの向上に役立つことを追い求めよう(ローマ14:19)と勧めています。
愛と平和を求めない人はいません。ところがなかなか実現しないのはなぜなのでしょうか。クリスチャンは、それを実現していくことを願い、日々の祈りとするべきです。
愛を実現する第一歩は、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)という事から始まります。人を愛すとは、人を尊敬するところから始まるのです。それは、平和を作りだすことにつながります。
お互いが心から尊敬し合うところに争いは起こりません。平和が築かれていきます。相手を自分より優れた者と思うのは、神がこの人を造られ、愛しておられるということに気づく事です。キリストは、この人を愛し、この人の為に死なれたのなら、そのような存在を本当に大切にし、尊いものとし、敬う必要があります。
そして、それぞれが互いの役に立ち、霊的な向上のために用いられるのです。私たちそれぞれが、信仰の向上に役立つとしたら、素晴らしい事なのです。
主イエスは、公生涯において多くの御業を表されたのですが、ご自分の満足のために成された事はありませんでした。
ある時、主イエスはご自分の方に来る群衆をご覧になりました。主は、この人たちにパンを食べさせるにはどこでパンを買えばよいかと、弟子にお尋ねになりました。弟子のフィリポは、「200デナリのパンでも、一人一人が少しずつ食べるにも足りないでしょう」と答えました。200日分の賃金でパンを買っても足りないし、何よりもそのように大量のパンを売っている所などありませんでした。
アンデレが一人の少年を主の前に連れてきました。アンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にもたたないでしょう」と言いました。
その時そこにいたのは男の人だけで5千人でした。
主イエスは、パンを取り、感謝の祈りをしてから人々に分け与えられました。魚も同じようにして欲しいだけお与えになりました。人々は食べて満足しました。12のかごが余ったパンくずでいっぱいになったのです。少年は、自分のお弁当を主イエス様のお渡ししたのです。パンを作るのに、大麦は向きません。グルテンがないので、パサパサになってしまいます。身近なところでは、麦茶の材料になるものです。
そのようなパンでも大切なお弁当で、量を考えても一人前にしかなりません。しかし少年は、その一人前を自分の物と主張しないで主イエスに差し出し、委ねました。大きな御業が成されました。5千人の人々が食べて満足したのです。隣人たちを大いに満足させました。
翌日、人々はさらにパンが欲しくて主を捜しました。そこで主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなくいつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物の為に働きなさい」(ヨハネ6:27)、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること」「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得る事」であると、主イエスを信じて永遠の命を得るようにと大切な事をお教えになりました。
少年は、主の御業のために大きく用いられ、主イエスの救いと永遠の命の教えに役立つ者とされました。
主を信じる者は、どのような時も、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈ることができます。忍耐と慰めを御言葉から学んでいます。もちろん御言葉とは、イエス・キリストご自身です。
主イエスを知れば知るほど、この方は忍耐と慰めに満ちたお方であることがわかります。自己中心であり、神に反発し、なかなか罪を認めようとしない、そのような者を長く忍耐し、慰めを与えて待ち続けられる神です。頑なで、心の戸を開けようとしない者の心を叩き続けて待つ救い主なのです。
イエス・キリストの忍耐と慰めによって今の私たちがあり、このように礼拝をささげられている事を覚えたいと思います。
私たちの神は、「希望の神」です。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)とあります。パウロの祈りです。忍耐と慰めの神は希望の神です。
聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださるのです。
聖霊に満たされ、キリストの御姿に倣う者とされ、互いに心を合わせることが出来ます。
主イエス・キリストが教えておられるのは、キリストに倣う事、そして、心を合わせ、声をそろえて真の神、唯一の神を褒め称える事です。心を合わせて神を賛美することこそ、希望に満ち溢れ、喜びに満ち溢れ、忍耐と慰めを知る者の喜びです。
パウロは、どのような境遇に置かれても、失望することはありませんでした。ローマの牢獄の中にあっても、喜びに満ち溢れた手紙を送り続け、希望を失う事はありませんでした。
永遠の命の希望こそ、人にとってたった一つのなくてならぬ物であり、それを主イエスは十字架によって全世界に賜ったのです。
ローマの教会には、さまざまな人々がいて、ともすると裁き合うようなことがありました。しかし、神はそのような事を望んではおられません。
お互いを受け入れあい、尊敬し合い、優れた者として認め合い、一つとなって神を褒め称え、礼拝するようにと、忍耐と慰めと希望を教えてくださいました。
キリストを信じる者たちがキリストの名で集まり、心を合わせて神を崇めるなら、世の中に、希望と愛と慰めをあらわしていく事に繋がります。聖霊は私たちを満たして下さいます。神の愛を教えてくださいます。
まずわたしたちが聖霊によって神の下さる永遠の希望を喜びましょう。忍耐と慰めの神を、声をそろえてたたえましょう。
ここに真の愛があり、救いがあり、希望があることを心から、そして心ひとつにして褒め称えましょう


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