阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年8月19日
主イエスの内にある
ローマ6章6-14節

 今日も共に主を礼拝できる恵みと特権を感謝します。主を礼拝できるのは、クリスチャンの特権です。この特権は信仰と生活の中心であることを覚えたいと思います。主の臨在を覚えながら、一つとなり、声を揃えて賛美をささげましょう。
8月15日は終戦の日ですが、また、私たちは「信教の自由を守る日」としています。誰でも、どのような存在にも妨げられずに自由に信仰を持つことができるのは、大切な事です。今、そのような時にキリストを信じ、宣べ伝えられる事を感謝したいと思います。そして、そのような時を大切にしたいと思います。
さて、人は自由が好きです。束縛される事は嫌いだと思います。
しかし、人は誰でも、主イエス・キリストを救い主と信じる以前は、罪に束縛されていたのです。それは、信仰をもって分かったのではないで
しょうか。
 人は、平和であることを望みます。しかし、争いは無くなりません。国と国、国と武装組織の争いは人命にかかわります。一般市民も命を落とすことが多くありますし、自国から他国へ命がけで脱出し、難民として暮らす人々も後を絶ちません。難民排除の動きも起きます。だれも幸せにならない戦いがなぜ起こり、続くのか。また、個人の生活でも、人と人の間に不和が絶えないのはなぜでしょうか。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり、戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ4:1−3)とあるように、争いや戦いの原因は人の欲望や、罪にあると記されています。突き詰めて考えれば、自分が富を得るために、あるいは権力を得て自分の欲望を満たすために、争いが絶えないとあるのです。争いは、人の罪が原因です。
 罪のために苦しみながらも、罪が分からない。迷いながらも迷っている事が分からないのが人なのです。
 そのような人のために、イエス・キリストは、十字架に架かり、命を捨ててくださいました。罪の代価は主イエスの十字架以外に支払う事はできません。罪人の贖いとなって下さいました。
主イエスを信じた時に、自分は罪の奴隷であって、罪を犯したくないと思っても、罪を犯し、罪に捕らわれていたことが分かりました。
心の中にある、自分中心や、神に反発する思い、人を蔑み、また、憎む心に気づき、解放されたのです。主イエスの血潮は全ての罪を清めてくださいました。争いを引き起こす情と欲は十字架に釘付けられました。
かつては罪の奴隷であった者が、キリストと共に十字架に架けられ、もはや罪の奴隷にはならないとあるのです。(ローマ6:6)
「死んだ者は、罪から解放されています」。(ローマ6:7)主イエスを信じる者は、罪に死に、古い自分はキリストと共に死んだのです。
そして、キリストと共に新しい命に生かされているのです。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(ローマ6:11)新しい命に生かされていることを感謝します。そして神に対して生きるという事に心を留めたいと思います。
自分自身を死者の中から生き返った者として、五体を神の義の為の道具としてささげる生き方こそ、神の御心であることを覚えましょう。
キリストの内にあり、その恵みの中にある者として、御心のように歩みたいものです
わたしたちが、不治の病気と診断されて、家族とも引き離されて強制的に生涯入院させられてしまったら、人生が変わってしまい、絶望してしまうかもしれません。
井深八重という女性がいました。1897生まれですから、明治の女性です。幼いころに両親が離婚して、伯父に育てられたのですが、教育を受け、長じて長崎で教師となりました。22歳の時、体に赤い発疹という異変が起きて、診断を仰ぐと、「ハンセン氏病の疑い」という事でした。すぐに仕事も止め、御殿場にある専門病院に隔離入院しなければなりません。名前も変えなければなりませんでした。入院して茫然自失の日々でしたが、やがて軽傷患者として、他の患者さんのために働くようになりました。特にフランス人院長である神父の、無私で、優しく、患者さんに対していつも励まし続ける姿に感動していました。そして3年後、なんとハンセン氏病ではなく、誤診であったことが分かりました。
喜び勇んで退院するかと思いきや、この病気と間違われたのは、使命なのかもしれないと、看護師の資格を取るために専門学校で学び、看護師としてこの病院で一生過ごすことにしたのです。誰に強制されたわけでもありませんでした。家に戻り、好きなように人生を送ることもできたのです。しかし、1989年に召されるまで看護師として患者さんのために働き続けました。
ハンセン氏病の患者さんの看護は厳しいものであったと述懐しています。傷口はひどく、体や顔が崩れていくのを看護するのは並大抵のことではありません。傷口に使用するガーゼや包帯は手洗いしていました。しかし、キリストに仕えるように、患者さんを看護したのです。
現在、病院内にある墓地に埋葬されていますが、墓標には「一粒の麦」と刻まれています。一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶと言われた主イエスの御言葉です。一粒の麦として古い自分が死んで、豊かな実を結べたという感謝の意味が込められています。
キリストと共に死に、キリスト共に新しい命に生かされ、生涯を神の
義の道具としてささげ尽くした一人の人の証です。
 主イエスが、十字架で死なれ、三日目に甦られたのは、私たちを罪から解放し、自由にするためです。
 自由とは、神の御心のように生きるということです。
ある時、主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31,32)と言われました。
わたしの言葉にとどまるなら、真理を知り、真理はあなたたちを自由にするというのです。また、「神に属する者は神の言葉を聞く」(ヨハネ8:47)とも言われました。
主イエスの言葉は真理です。私たちは聞かなければなりません。良く聞く心の耳を開いていなければなりません。そして、聞いたなら、そのように従うのです。丁度羊が羊飼いに呼ばれて、その後に従って行くように、従い続けるのです。
クリスチャンは、世の光、地の塩です。世の中の人が、自分と同じようにしないからと言っても、世と妥協してはならないと御言葉は教えています。十字架により、罪から解放されたにもかかわらず、世はクリスチャンを誘います。
古い自分はキリスト共に十字架に架けられたのです。そして、今生きているのは、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(Uコリント5:15)ということであり、新しく創造された自分を生きる事です。
主イエスは私たちを、罪の世にある人々に、神との和解の使者としてお立てくださっている事を常に心に留めたいと思います。
平和を作りだすことが出来るのは、キリストにより平和を与えられ、人々の中に平和を作りだし、神との平和のための使者となれる、贖われた者であることを覚えましょう。
キリストの内にあり、その恵みの下に生かされている事を心から感謝しましょう。

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
                     (Uコリント5:21)


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