阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年9月2日
神の賜物
エフェソ2章1-10節

 エフェソの信徒への手紙は、パウロがローマの獄中にあった紀元62年ごろ書き送られた手紙です。使徒言行録20章には、ミレトスの港にエフェソの長老たちを招いて、最後の勧めをした記録があります。
パウロは苦難を覚悟のうえでエルサレムへ行こうとしていましたが、ミレトスで、長老たちにしっかりと信仰を守り、教会を守るようにと励ましました。
パウロたちはひざまずいて祈り、泣きながら別れを惜しみました。エフェソの手紙は、この後3年後くらいに送られたと考えられています。
 2章1節からは、人がイエス・キリストを信じる以前の姿と、その後の姿が教えられています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)とあります。
 以前の生き方は、この世を支配する霊に従った生き方であると指摘しています。肉の欲に従った生き方だという事です。
「過ちと罪」ということが語られています。過ちとは、踏み外すとか、落ちるという意味があります。目の前に正しい道と、誤った道があり、正しい道を行くことができるのに、誤った道をとることを表しています。   罪とは、的を外すという意味です。本来のものを本来としない事を言います。神を神としない、真理を真理として受け入れない。過ちも罪もその証は、不従順であらわされます。
 これらのことは主イエスのたとえ話で良く理解できます。ルカ15章の弟息子の生き方は、罪と過ちに満ちていました。
この息子の心の中は、自分の欲を満たすことだけで占められていて、自己中心以外の何ものでもありませんでした。自分の楽しみ、自分が考える自由、それにはなんの責任も伴いません。好きな事だけして遊び暮らすことへの渇望だけがあったのです。
神の前に、御心を知り、御心に生きるとか、受けるより与える生き方とか、そのようなことは全く心の中にはありませんでした。
父親の財産をもらい、遠くの町に行きましたが、快楽だけの生活は長くは続きませんでした。やがて、財産を使い果たしたのです。折(おり)悪く(わるく)飢饉になってしまい、あっという間に食べる事もままならないほどの窮乏に陥りました。豚飼いとして雇われたのですが、ユダヤ人にとって豚を飼う仕事は、どん底以下の仕事でした。豚は汚れた生き物とされていたからです。
彼は、そこで初めて的外れで踏み外した人生であったことに気が付いたのです。父親のところでは雇人でさえ有り余るほどの食物を食べている。父親のところに帰って詫び、息子ではなく雇人として受け入れてもらおうと決心して、帰り道を歩み始めました。
父親は、遠くから彼を認めて走り寄って首を抱き、接吻してくれたのです。息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言いました。父親は息子のこの言葉に答えるのではなく、僕たちに「急いでいちばん良い服をもって来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」(ルカ15:22)と言って、さらに盛大な宴会をして喜んだのです。それは、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15:24)という理由でした。霊的に死んだ者が生き返ったのです。道を踏み外していた者が居るべき所に帰って来たのです。
 主イエスは人の罪と過ちを本当に分かりやすく教えて下さいました。
誰にでも、肉の欲の誘惑はあるのです。ですから、主イエスは目を覚ましているようにと教えてくださいました。
 人は皆、生まれながらに神の怒りを受けても仕方のないような者であるのに、神はこれ以上ないほどに愛して下さり、あの父親のように子として受け入れて下さったのです。キリストの尊い十字架の贖いによって、罪から解放されて、生きる者にしてくださいました。
 神様は罪からの救いについて、完全に準備をしてくださいました。主イエスの十字架の贖いは完全なものです。私たちにとって大切なのは、贖いを受けた者のそれからの歩み方なのです。
エフェソの信徒への手紙ですから、これはクリスチャンに宛てた手紙です。その勧めには、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4:30)とあります。贖われた者は神の御霊を悲しませるような、 罪や過ちから遠ざかり、御心がなるように生きることが示されています。
 「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして下さった」(エフェソ2:4)のです。
神様は私たちをこれ以上は愛せないほどの愛で愛されているのです。
愛される理由が何もないような者を愛し、ご自身の子として受け入れて下さいました。そして、キリストにある私たちを、キリストと共に天の王座に着かせて下さったのです。
私たちは、日々さまざまな問題を抱えていながら、「天上の王座」に着いたと考えにくいかもしれませんが、私たちは死んでから神の国に入るのではなく、キリストを信じた時に神の国に入りました。すでに神の国の者です。神の国は、神が御支配されるところです。ですから私たちは今、天の王座に着いているという事を信じるのです。
私たちは、死から命へと移され、キリストと共に王座に着かせて下さいました。これは、神の愛と恵みの業なのです。
私たちが救われたのは、恵みにより、信仰によってです。
そして救いは何よりも神の賜物なのです。
賜物とは、神からの一方的な贈り物であって、わたしたちはただそれを受け取るべきものなのです。
ローマの信徒への手紙6章23節には、「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」とあります。
ローマの信徒への手紙も、もちろんパウロが記したのですが、ここではローマの兵士たちに支払われる報酬を意識して記されています。兵士たちは、さまざま所へ派遣され、命をかけて戦い、働かなくてはなりません。その働きに対して報酬(給料)が支給されました。塩(ソルト)で払われたので、サラリーという言葉の語源になりました。働きに対して支払われるのが給料です。賜物とは、働きに対する報酬ではなく、何の働きがなくても、一方的にいただけるものなのです。
救いや永遠の命は、働いたことによる報酬によって得られるものではなく、神の一方的な愛と憐れみ、賜物によるのです。
神がどれほどの愛をもって私たちを愛しておられるのかをしっかり心に留めなくてはなりません。
放蕩息子を迎え入れた父親に神の愛を知ることができるのです。子として受け入れる。上等の服も、指輪も、履物も、雇人ではなく子である事の印でした。これが賜物です。
私たちは神に造られた者です。そして、キリストを信じて新しい命に生きる者とされました。それは、神が備えて下さった善い業の為であるとあります。
永遠の救いという神の賜物を受け取った者は、神が備えられた善い業を行う事が出来るのです。それは、神の愛をあらわす事であり、平和を作る事であり、神の栄光を現わす事です。
神は、その独り子である主イエスを賜ったほどに私たちを愛して下さいました。私たちはその恵みの中に生かされている事を感謝します。日々の生活の中恵みでないことは何ひとつとしてありません。また、神の賜物としてすばらしい救いと命を頂くことが出来ました。
神からの賜物で満たされているのです。
心から神に向かって感謝と喜びの声をあげましょう。
神からの賜物に感謝します。

「言葉では言い尽くせない贈り物(賜物)について神に感謝します」(Uコリント9:15)


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