阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年9月23日
死の陰の谷を行くときも
詩編23編1-6節

 今年も先に天に召された兄姉を記念して合同記念礼拝をささげる事ができて、心から感謝します。
 人には定められている事があります。それは、生まれたからにはいつかこの世の旅路を終える時があるという事です。
詩編90編には、「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩編90:10)とうたわれ、また「人生はため息のように消え失せます」とあります。
若く、力に溢れ、どのようなこともできると誇ったとしても、あっという間に歳月は流れ去り、それは瞬く間に過ぎ去って行くというのです。
 年をとってくると実感として理解できます。それだからこそ、今日という時に本当に大切なものを見出していかなければなりません。
 今日お読みした詩編23編は、150編ある詩編の中でも最も有名な箇所です。クリスチャンであるなら、知らない人はいない有名な詩編です。
 この詩を作ったダビデは、後にはイスラエルの王になりましたが、若いころは羊飼いでした。8人兄弟の末っ子で、父親の羊の番をしていたのです。ダビデは、羊飼いがどのようにして羊を守るかを良く知っていました。だから、主こそわたしの羊飼いであり、自分はその羊であることをまず告白できたのです。良い羊飼いは、毎日羊を緑の牧場に導いて、青草を与え、きれいな水を与えて養い、羊を憩わせ、豊かな命を与えて下さるとうたいました。
実は、この羊飼いと、羊の関係が、救い主であるイエス・キリストと、私たちの姿を良く表しているのです。
 羊飼いは、羊に必要なものが何かを良く知っていて、豊かに与えて下さるので、羊は、「わたしには何も欠けることがない」と、安心して生きる事ができるのです。
 イエス・キリストは、ご自分を「良い羊飼い」であると言われました。イエス様がこの世に来られたのは、羊が命を受けるためであり、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われたのです。
事実その通り、すべての人の救いのために十字架に架かられ、救いの業を成し遂げられました。羊に永遠の命を与えられたのです。
 3節に、魂を生き返らせて下さるとあります。人は、神に創造された霊的な存在です。神が人を造られた時、その鼻に命の息を吹き入れられたので、人は生きる者となったとあります。創造主である神を知り、祈り、交わることのできる霊的な部分を人は持っていますが、この魂は真の神を求めて渇くのです。
 人は、自分を満足させるものが欲しくてあれこれと求めたりします。一つが満たされても、また渇きます。満足がないのです。それは向上心とは違うものです。なにか自分を満足させてくれるものはないだろうか。
しかし、「銀を愛する者は銀に飽くことなく 富を愛する者は収益に満足しない」(コレヘト5:9)、とあるように、この世の富をもってしても魂の充足(じゅうそく)は得られません。
 幼子が母親を慕って泣くとき、他の人が抱いても決して泣き止みません。母親で泣ければ満足しないのです。母親の胸におさまった時だけ、満足と安心が得られるのです。
 私たちを創造された真の神である、イエス・キリストを心に受け入れた時、魂は息を吹き返し、魂が満たされ、生きる者とされることを覚えましょう。
 人生が旅であるとしたら、私たちは正しい道を歩まなければなりません。羊飼いが導いて下さる道です。命の道です。羊飼いは羊が後についてくるように心を配ります。羊飼いの手には鞭と杖があります。鞭と訳された言葉は「棒」と訳された方がふさわしい言葉です。羊を脅したり、罰を与えたりするためのものではなく、悪い者が来て、羊が襲われるような時、羊飼いはこれで戦います。少年ダビデが、巨人ゴリアテと戦おうとしてサウル王の前に出た時、このような少年が戦えるのかといぶかしがる王に、「僕(しもべ)は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から奪いとることがあります。そのときには追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します」(Tサムエル17:34)と言いました。
ダビデは唯一の武器である棒と、羊が離れそうになった時に使う杖の事を語り、これらが羊にとっては何よりの慰めであることを知っていました。
 さらに「死の陰の谷」を行くときも災いを恐れないと宣言したのです。ダビデは子供の時から2代目の王になることが約束されていました。初代の王であるサウルは不信仰と不従順のために退けられるからです。
しかし、王位に着くまでは苦難の連続で、サウル王の執拗な追跡によって命が危うい事が何度もありました。精神的にもつらい事が多くあったのです。危機を脱出するために狂気を装おうこともありました。
 しかし、常に魂を生かして下さり、最善の道に導き、良い物で満たして下さるイエス・キリストが共におられるので、恐れないと歌いました。
私たちも死の陰の谷を行くような時があるかもしれません。先にも申しましたが、70年、80年生きれば人はいつしか終りを迎えなければなりません。若くても、病に倒れた時、あるいはおもわぬ災害に会うような時、自分にとってはこれが「死の陰の谷」を行く事と思うのです。
 しかし、御言葉は私たちを慰め、力をくださいます。自分が直面している危機に心を奪われて、悲しみ絶望することはありません。救い主が共にいて、死の陰の谷を脱出させて下さるからです。何よりも共に歩んでいて下さるのです。これほどの安心はありません。
 聖書には「死の陰の谷」を歩んだ人々が大勢登場します。その中でも使徒パウロは多くの体験をしました。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から40に1つ足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度。石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度。一昼夜海上を漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Uコリント11:23−27)と告白していますが、それに負けている事はありませんでした。誇る必要があるなら、この弱さを誇ると言っています。  最後はローマの獄屋で殉教するのですが、直前まで「主にあって喜びなさい。喜びなさい」と、手紙で教会を励まし続けたのです。死の陰の谷を行くときも、賛美と喜び、平安を持ち続け、神を崇め続けました。
最後まで良い羊飼いに従い続けるなら、「義の冠、栄光の冠」が与えられることを確信していました。
 自分を苦しめる者の前で、宴会をしてくださり、頭に香油を注いで下さる。炎天下、宴会に出席したお客様に香り豊かな香油を注ぐのは、乾ききった肌を潤し、歓迎を表します。杯、即ち魂は豊かな恵みに溢れるのです。23編5節は、良い羊飼いに従う者の祝福が記されています。命の限り、神の恵みと慈しみがいつも追いかけて来るというのです。
これがイエス・キリストを信じた者に対する祝福です。
 そして、やがて主の家に帰る時が来る。永遠にその大庭に憩う事が約束されているのです。
ダビデは、また、「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。(詩編27:4)とも歌いました。主の家、即ち主の臨在の中に日々住まい、目覚める事を願ったのです。
 主イエスを信じて従う者は、主の十字架の贖いによって罪赦され、永遠の命の祝福の中に生涯を良い物で満たされ、やがて永遠の住まいにうつされるというすばらしい祝福が備えられている事を感謝します。
 先に召された兄姉とやがて主の家で再会し、喜び合い、共に神を賛美する、永遠に神と共にある恵みを感謝し、良い牧者である主イエスの声に日々従い歩み続けて参りましょう。


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