阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年9月30日
失望から希望へ
ヨハネ5章1-9節

 マタイ、マルコ、ルカの3福音書は、共観福音書といって、共通の出来事が多く記録されています。
ヨハネによる福音書も、もちろん共通する記事がありますが。永遠の命が強調されていて、第4福音書と呼ばれています。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20:31)と記されているとおりです。
イエスをキリストと信じて永遠の命を得るために福音書が書かれたとあるのです。
また、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)は、あまりにも有名な御言葉です。
主イエスは祭りのためにエルサレムへ上られました。羊の門のそばにベトザタという名の池がありました。その池の周りに5つの回廊があって、そこには、「病気の人」「目の見えない人」「足の不自由な人」「体の麻痺した人」などが大勢横たわっていました。この池の水が動くとき、最初に入った者は癒されたからです。
そして、そこに38年間も病気で苦しんでいる人がいました。40年近くもこの回廊に寝ていたのです。
 私たちは、38年前の事を覚えているでしょうか。あまりにも長い年月です。私たちの生活の中で当たり前に飲んでいるポカリスエットは、昭和55年に発売されたそうです。38年前です。
主イエスは、38年間寝たきりの病人のところに来てくださいました。そして、「良くなりたいか」と、お聞きになりました。
病人は、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです」(ヨハネ5:7)と答えました。
 大勢の人々が水が動くのを待っています。皆癒されたいのです。水が動いたら、他の人に譲ることはできません。これが人の思いなのです。
 いつ水が動くか分からない。水が動いたとしても、予約番号カードを配って順番に入るという事もありません。我先に行くのです。
 当てのない、希望のない毎日でした。人にとって希望がないことほどつらい事はありません。将来のビジョンを持つことが出来ないのです。
ただただ、水が動くときに真っ先に入りたいということしか考える事はありませんでした。
 ヨハネによる福音書には、主イエスが、先にお声をかけて関りを持ってくださると記事があります。サマリアの井戸で出会った女性にも、主イエスはお声を掛けました。ユダヤの男性が、サマリアの女性に話しかける事はなかったので、水を汲みに来た女性は驚いたのです。
主イエスは、この女性に永遠の命に至る水を伝えました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:13、14)と教えてくださいました。
 先に声をかけていただいた人の中には、あのザアカイもいます。ザアカイの記事はルカによる福音書にあるのですが、主イエスを一目見たいと思ってイチジク桑の木に登っていたザアカイのところに主イエスはまっすぐ来られました。そして、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。
 ザアカイは取税人の頭で金持ちでしたが、罪人であり、希望はなかったのです。そのザアカイに主イエスは声をかけて、ぜひあなたの家に泊まりたいと言って下さいました。ザアカイは主イエスにお会いし、悔い改めて新しい人生を始めることができました。
 ベトサダで長い間失望や絶望の中にいた病人は、主イエスに「良くなりたいか」と問われた時、自分を助けてくれる人がいないと答えました。
 38年間、孤独、見捨てられている、取り残されている、不安、悲しさ、他の人に対する不満、やるせなさ、持っていき場のない思いを抱えていたのです。
病人でなくても、このように思う人はこの世に多くいるのではないでしょうか。自分がうまくやれないのは、だれも助けてくれないからだ、他の人が自分よりも先にしてしまうからだとか、いつも自分は退けられているとか考えている人がいるかもしれません。そして、それが深くなると、世の中を恨み、人を恨み、ゆがんだ歩み方になってしまうかもしれません。
このようにしか考えられないなら、希望は持てないのです。そして、その失望と絶望の中に閉じこもらなければなりません。
主イエスはそばにこられて「良くなりたいか」と聞いてくださるのです。それは、今の状況の中から新しい出発をしたいかとお聞きになっているのです。
主イエスは、誰も助けてくれないからと言った病人を見捨てられたでしょうか。「あなたはそのようにいっているからダメなのだ」とは言われません。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ5:8)と、お命じになりました。
 人の心が絶望している時、なかなか言葉は届きません。心を変える事は本当に難しいのです。しかし、この病人は、主イエスの「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という御言葉に反応しました。
確かに誰も助けてくれないのだけれども、本当に自分は助かりたいのかもう一度心の中で考えたのです。そして、主イエスの御言葉を聞いた時、新しい一歩を踏み出しました。
「起き上がりなさい」という言葉は、「甦る」ことを意味する言葉です。新しい命に起き上がると言う意味です。
病気で苦しむだけではなく、魂も病んでいた人は、魂も体も新しくされたのです。「主イエスの命に甦り、あなたを縛り付けていた床から起き上がり、自分の足で歩きなさい」と、命じられました。
 体が癒されただけではなく、魂が甦ることを主は命じられたのです。
この人は直ちに癒されて、今まで38年間自分が横たわっていた床を担いで歩き始めたのです。
 主イエスは、人に罪からの解放を与え、永遠の命と希望を与え、新しい人生へと導いてくださいます。
 そのスタートに必要なものは、主イエスを信じ、心に受け入れ、その命に生きる事です。主イエスにはすべてが可能です。
 人は誰でも霊的に病んだり、目が見えなかったり、足が不自由だったり、麻痺したりしています。罪によって魂が病み、神の栄光が分からなくなります。霊の目が塞がり、導いて下さる主イエスを見失ってしまいます。主イエスに従いたいと思っても、足が動かず、道を踏み外してしまうことがあります。魂が麻痺して主に従う信仰と勇気がなくなってしまうかもしれません。
 自分の罪が深いと思い、動けなくなった時に、主イエスは、「あなたは良くなりたいか」と聞かれるのです。
 罪や弱さを隠すのではなく、また、環境や、だれかのせいにするのではなく、「治りたいのです」と答えれば、主イエスは直ちに救い、癒し、新しい命に満たして下さるのです。
 失望や絶望は、不敬虔だと言った人がいます。たしかに不信仰であり、不敬虔な心といえるでしょう。
望みは主イエスにあり、主に従い続ける時、希望と喜びに魂は満たされます。主イエスはいつでも「起き上がりなさい」、甦りなさいと、声をかけて下さるのです。 このベトザタの癒しは安息日に行われたので、ユダヤ人たちは主イエスを迫害し始めました。また、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)と言われたので、さらに命を狙われるような事態になりました。
 しかし、主イエスは癒された男に「あなたは良くなったのだ。もう、罪をおかしてはいけない」(ヨハネ5:14)と言われました。
良くなった者、新しい命に甦った者は、もう罪を犯さないようにと言われました。
失望しかなかった人生の中から、新しい永遠の希望に導かれ、主イエスの命に生かされている今、心からの賛美をささげてまいりましょう。 


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