阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年10月7日
賞を得るために
Tコリント9章24-27節

 人は競技で優劣を争う事が好きなようです。秋にはどこの学校でも運動会が行われます。日本では、明治時代にはすでに始められていたようです。
 古代ギリシャには、4つの大きな競技大会がありました。いずれもギリシャ神話の神々にちなんだものでした。一番有名なものはオリンピア大祭で4年に一度行われました。また、イストモス大祭という競技会が2年に一度行われました。イストモスというのは、地峡という意味で、イストモスがあったところがコリント地峡でした。1800年代に開削された有名なコリント運河は、このイストモスを整備したものです。
コリントの町から数キロも離れていないところで2年に一度大きな競技大会があったのです。
 当時、女性と奴隷は、競技大会に参加できませんし、見学することもできませんでした。しかし、パウロの手紙のこの内容は、誰もが競技大会を頭にうかべて納得できたのではないでしょうか。パウロは、200m走や拳闘を意識して記しました。
 競技大会の選手たちは、賞を得ようとすべてに節制するとあります。200m走に参加する選手たちは、どうすれば早く走れるのかを研究し、節制したのです。そして、やみくもに走ればよいのではなく、ゴールを目指さなければ何にもなりません。違う方向にいくら走ってもしかたがないのです。
 また、拳闘の選手たちも、空を打つような拳闘はしませんとあります。
 スポーツで大切なのは、ルールを守る事です。守らなければ反則、そして失格となってしまいます。
 私たちの信仰生活はどうでしょうか。信仰に必要なのは、神の御言葉に従っていくということです。確かに主イエスを信じているけれども、聖書の御言葉に日々従って行くということについてあいまいであるなら、知らず知らずのうちにコースから外れてしまうでしょう。
 イスラエルの初代の王には、ベニヤミン族キシュの子サウルが選ばれました。彼は、「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」(Tサムエル9:2)と描写されています。サウルは背が高く、美しい若者でした。
また、王に選ばれる時も荷物の陰に隠れているような人でした。しかし、王になると、アンモンとの戦いに優れた指導力を発揮し、「サウルなど王になれない」と侮っていた人々にも、「王様ばんざい」と、しっかりと王としての立場を認めさせることができたのです。
しかし、その後サウルは、犠牲のささげものをささげるためにやって来る預言者サムエルを待つことが出来ませんでした。
ペリシテとの戦いで苦戦し、兵士たちが恐れおののいていた時でした。サムエルがなかなか来ないので、サウルは待ちきれずに犠牲をささげたのです。その直後サムエルが到着しました。
サムエルは、「あなたは何をしたのか」と問いました。サウルは、「あなたは来ないし、兵士たちは逃げて行くかもしれない。ペリシテは攻めてくるようだし、わたしはまだ神に祈っていないと思って、あえて燔祭をささげたのです」と、とにかく今は大変な時だから、あえてそれをしたのですと言い訳をしました。
それに対してサムエルは、「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ」(Tサムエル13:13−14)と語りました。王位についてまだ2年目のことでした。
祭司しかささげられない犠牲をささげたことは、サウルの不信仰で、ルール違反だったと言えるのです。
王となって心が高慢になり、目の前の敵を恐れて心の目がふさがれ、不信仰と不従順な者となってしまったのです。
王として、常に神に従い、また神に遣わされたサムエルの言葉にもしっかりと従わなくてはなりません。しかしそれができませんでした。
そして、その後、アマレクとの戦いの折、すべて滅ぼすようにと命令されていたにも関わらず、最上の羊や牛その他なんでも上等の物は惜しんで取って置き、価値のないものだけを滅ぼしました。
サムエルによって問いただされると、サウルは、「良い物は取り分けて、神へのささげものとしようと思っていました」と、言い訳をしたのです。そこで、サムエルは、「主が喜ばれるのは 焼きつくす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。 高慢は偶像崇拝に等しい」(Tサムエル15:22、23)と語りました。サウルに必要なものは、聞き従う事のない、高慢な、また、不注意な心を悔い改める事でしたが、それができませんでした。
主イエスは、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18:14)と教えてくださいました。
私たちは、日々神の恵みによって生かされています。神の御言葉から離れてしまうと、すぐに霊的に弱くなり、道を外れてしまいやすい者であることを自覚しなければなりません。そうでないと「自分の方が失格者」(Tコリント9:27)になってしまうかもしれません。神の御言葉と恵みの中をしっかりと歩んで行きたいと思います。
クリスチャンの信仰の節制とは、つねに御言葉に従えるように、自己の訓練をすることです。それは、いつも主イエスを見上げる事からはじまります。自分の心が自分の楽しみや興味や生活にのみ、向いているなら、信仰の節制は難しくなります。
古代競技大会の選手は、優勝しないと冠は受けられませんでした。現代のオリンピックでは、3位まで、金、銀、銅のメダルが受けられますが、古代競技会では、優勝者のみが栄冠を受けられました。オリーブや月桂樹でできた冠です。イストモス(コリント)競技会の冠は、セロリでできていたと言われています。
優勝の栄誉に輝き、冠を受ける事ほど晴れがましいことはありません。人々の賞賛もうれしいものです。選手はそのために精進し、節制し、努力するのです。しかし、オリーブも月桂樹もセロリもすぐにしぼみ、枯れてしまいます。やがては消え去っていくでしょう。
人の栄光もいつしか忘れさられてしまいます。
パウロは、「わたしたちは朽ちない冠を得るために節制するのです」(Tコリント9:25)と記しました。
パウロは、神が備え、与えて下さる、栄光の冠を信じ、待ち望んでいました。「決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が
来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(Uコリント4:7、8)これは、ローマの牢獄の中で愛弟子テモテに送った最後の書簡のなかにある言葉です。すでに召される事を覚悟していました。そして、自分の決められたコースを間違いなく走り通すことが出来たこと、正しい審判者である主がゴールインを認めて、冠を授けてくださる事を確信していました。それは時がたつとしぼんでしまう冠ではなく、栄光の冠であり、義の冠なのです。
 イエス・キリストを救い主として心に受け入れ、その御言葉に聞き従い、常に悔い改める事の出来る信仰をもって、正しい道に導かれる者に備えて下さる永遠の命の冠です。そのような人には、すでに備えられている冠であり、永遠の命です。
 信仰者の生涯は、競技場で走り抜くことにたとえられています。
「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:1、2)
主イエスを仰ぎ見つつ、正しい審判者である方が備えて下さる栄光の冠を目当てに日々定められたコースをひた走り、御言葉が生活となるよう節制し、励みましょう。


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