阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年10月14日
赦す事・委ねる事
ヘブライ 11章6節

 クリスチャンの目標はすべて、主イエスにあります。十字架の贖いにより罪を赦されて、主イエスと共に御心を生きる者とされました。
私たちは、主の栄光を現わすために生かされているのです。この世にあって、常にキリストを現わしていく者とされています。
キリストを現わす人生は、信仰の人生です。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」(ヘブライ11:6)とあります。
神は、信仰を喜ばれると考えることができます。そして、私たちは、一日一日主にあって信仰の成長をしていくのです。
「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:13)とあって、日々成長すべきことが教えられています。
模範は主イエスであり、成熟を目指していく事であり、成熟していくとは、主イエスの完全さに等しくなることを表しています。
成長するためには学びが必要なのでしょうか。あれこれといろいろなものを求めなくてはならないのでしょうか。そうではなく、必要なものはすべて聖書にあります。まず御言葉を求めていくところがスタート地点です。
信仰は、主イエスとその御言葉を信じて従う事です。ですから、まずすべては聖書から始まるのです。
「信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ11:6)
神が存在しておられる、神は共におられることを信じるのです。聖霊は私たちの内に幕屋をはってお住まい下さっています。忘れてはなりません。
それと共に「ご自分を求める者」に答えて下さるとあります。「ご自分に求める」ではありません。一時違いですが、まったく意味が異なるのです。神ご自身を求めるのです。わたしたちは、あれこれと必要を求めることが多いのですが、その前に神ご自身を求めていくなら、報いて下さるのです。主イエスが教えて下さった「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:23)に共通する教えです。主イエスは、だから明日の事は思い煩うなと教えておられます。
神ご自身を求めるなら、信仰は成熟していくのです。成熟の印は様々ですが、その一つに赦す事という大切な事があります。
主イエスは、赦すことを教えておられます。ある時、主イエスにペトロが、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(マタイ18:21)と聞いたことがありました。当時、3回までは赦すという習慣がありました。ですから、ペトロは7回なら十分と考えたと思います。ところが、主イエスは7回を70倍するまでとお答えになりました。主イエスは赦す回数ではなく、無限に許すことをお教えになったのです。
そして、王から借金をしていた人の例えをお話になりました。王から1万タラントもお金を借りていた人は、清算を求められるとひれ伏して「待ってください、必ず返します」と頼みました。王は憐れに思って借金を帳消しにしてくれたのです。1万タラントの借金が無くなったのです。1タラントは6000千万円位ですから、タラントは大きな貨幣単位です。1万タラントの借金は返せない額と考えられます。6000億円の借金です。これだけのお金を返さなくてよいとなったら、本当に生き返ったような思いで、新しい生活を始められるのではないでしょうか。
ところが、帰り道でこの人から100デナリ借りている人と出会いました。この人を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と、迫ったのです。100デナリは60万円位です。返すから待ってくれと頼む人を、牢に入れてしまいました。仲間たちはこれを見て、心を痛め、王様に事の次第を報告しました。王は、この人を呼びつけて、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(マタイ18:32)と言い、借金を全額返済するまで牢役人に引き渡してしまいました。このたとえ話の結論として「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(マタイ18:35)と教えられたのです。
私たちは、罪の負債を、主イエスの十字架で赦されたことを忘れてはなりません。それは払いきれないほどの負債だったのです。
主イエスの血潮により、すべての罪が赦されて、天国の民とされているのです。もし、赦された者が赦さないとしたらどうなるのでしょうか。
再び罪の負債の中に閉じ込められるような事になります。私たちは赦すということに誠実に心を向ける必要があります。
赦さなければ赦されないという御言葉をしっかりと噛みしめ、改めて主イエスの十字架を仰がなくてはなりません。
主イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られたのです。ご自分を十字架に架けた人々のために祈られた御姿を見上げたいのです。
また、信仰の成熟さは、委ねる信仰によって表されます。私たちの主は、全てを知っておられる全知全能の神です。私たちは一歩先の事も見通すことができませんが、主イエスは人生の導き手であり、最善をなされるお方です。
詩編23編にうたわれているように、羊飼いとして羊を導き、憩いのみぎわ、緑の牧場へと導かれるお方なのです。
羊は羊飼いに全てを任せて付いて行きます。お委ねするのです。
たびたび登場するダビデは、サウル王に追われて逃避行を続けなければなりませんでした。エン・ゲディの洞窟の中にサウルが入ってきたことがありました。その洞窟にはダビデと家来たちが先に入っていたのです。ダビデの家来たちは、サウルが入ってきたことを知り、ダビデに「今こそサウルを打つべきです」と提案しました。ここでサウルを打ち取れば、苦しい逃亡生活も終わりをつげ、ダビデはすでに預言者から任命されているように、直ちに2代目の王に就任できるのです。
ダビデは、サウルに気づかれないように上着の端を切り取りました。しかし、ダビデはこれを後悔し、「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」と後悔しました。そして、サウルが洞窟を出てからダビデは声をかけ、上着の裾を見せてサウルに対して決して敵意がない事を現わしました。
サウルがどのようにダビデに危害を与えようと、サウルは神から油を注がれた方であり、自分の主君であって、害を加える事は御心ではない事を知っていたのです。
この時サウルは泣いて、「お前は正しい、お前は善意をもって対してくれた」と、引き上げて行ったのです。残念な事にこれ以後もまた、心が変わり、あくまでもダビデを追う事が続きました。
ダビデは苦しい中にも、自分が手を下すのではなく、正しい審判をしてくださる全能の主に全てを委ねました。
私たちは、主イエスの十字架の贖いによってすべての罪を赦され、はばかることなく神の御前に進み、祈りによって交わることができる恵みを覚えたいと思います。
主が赦されたように、赦す信仰に生きる事、全能の神にすべてを委ねながら歩む人生は、幸いな祝福に満ちたものとなるでしょう。
そして、もう一歩進み、迫害する者のために祈るという教えを心に留め、祈る信仰でありたいのです。
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ローマ12:14)
日々成熟した信仰を目指して祈り続けましょう。


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