阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年10月21日
からし種一粒
ルカ17章5-6節

 主イエスを信じて、罪赦され、クリスチャンとなった者の生涯は信仰の生涯です。先週も、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ11:6)という御言葉から学びました。
私たちは信仰によって日々歩む者なのです。
私たちは自分の信仰について常に心を探って行きたいと思います。
主イエスは信仰について、「からし種」を例えて教えてくださいました。
私たちは、主イエスが示された、からし種の実物はなかなか見る事ができません。
 私が神学生の時に、ある方がイスラエルからからし種を持ち帰って、見せて下さったことがありました。本当に小さく、軽いものでした。少しずつ分けてもらって、学校のチャペルから数十メートル移動して、自分の部屋に帰った時には、どこかにいってしまったほどに軽いものでした。
包んでいたハンカチから、気が付かない間に抜け落ちて、あっと言う間もなくどこかに行ってしまったのです。
聖書はからし種は最も小さいものを表していると考えられます。
 使徒たちは、いろいろな事を主イエスにお願いします。祈る事を教えてくださいとお願いしたり、信仰を増して下さいとお願いしたりしています。
弟子たちが、「わたしどもの信仰を増して下さい」とお願いすると、主イエスは、「もし、あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、抜け出して海に根を下ろせと言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ17:5)とお答えになりました。
先ほども申しましたように、からし種は小さいものです。この小さいからし種、それも一粒ほどの信仰があれば、桑の木が海に根を下ろすと言われたのです。
一方、桑の木とは、パレスチナ地方によくみられるイチジク桑の木であると言われています。エリコの町でザアカイが主イエスを見ようと登った木です。樹齢は長く、数百年もあって、地中深く根を張る木であるといわれています。
 イチジク桑の木は、からし種と対照的に大きな物として表されています。
この桑の木が、地中から抜け出して海に根を下ろすと、主イエスが言われたのです。弟子たちは、そのような事があるのかと、顔を見合せたかもしれません。
 弟子たちは、信仰について少し誤解していたようです。信仰があれば、自分の力が増していくと考えたようです。
主イエスは、からし種一粒ほどの信仰があれば、大きな業が起きると言われました。
 主イエスが教えられたのは、小さな小さな信仰さえあれば、御業は起こるという事なのです。ですから、信仰とは、信仰があるかないかということにかかってくるのです。
100パーセントの信仰とか、60パーセントの信仰ではなく、
100パーセントか0かという事が問題になってくるのです。あるかないかです。
 主の弟子ペトロは、主イエスがご自分が十字架に向かって進むことを話すと、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と、言いました。何があっても、どこまでも、主イエスに従って行く、たとえ、他の者が皆怖気(おじけ)づき離れたとしても、自分だけは主イエスにどこまでも従って行くと考えてそのように言いました。主イエスを信じる信仰は誰にも負けないと自負していたのです。絶対100パーセント信じていると思いました。
ところがどうだったでしょうか。主イエスがゲッセマネで逮捕され、大祭司の庭で裁判を受ける事になった時、ペトロはその庭にこっそりと入り、焚火に当たっていました。
そして、3度「この人は、あのイエスと一緒にいた人だ」と、指摘され、3度とも激しく否定しました。
「あの人の事など絶対に知らない、私とあの人とは無関係だ」と、誓ってまで否定しました。ペトロの信仰はどこへ行ってしまったのでしょうか。
 このように、人の信仰は窮地に立たされた時に明らかになります。
ペトロはこの時、完全に信仰がどこかへ行ってしまったのです。
信仰は、年月によって積み立てていくようなものではなく、また、多いか少ないかでもなく、あるかないかであるといえるのではないでしょうか。
からし種はこの世の中の最小のものかもしれませんが、「ある」のです。私たちは、自分の内に信仰が「ある」ことを常に認めていく事が大切な事です。
信仰があるなら、からし種一つであっても、大きな実を結ぶのです。
私たちは、いつも救われた目的を覚えて祈る必要があります。なんのために救われたのでしょうか。
「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが、広く伝えるためなのです」(Tペトロ2:9)とあるように、真の神、救いを与えて下さる方、永遠の命の中に招いて下さる方を広く伝えるためであるとあります。
 主イエスを知らないと否定したペトロは、深く悔い改めました。ガリラヤ湖畔で主イエスから再び召されて立ち上がりました。そして、ペンテコステで聖霊が注がれ、主イエスの復活の証人として用いられるようになりました。
 迫害されても、脅かされても、投獄されても、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒4:20)と、恐れずに主イエスを伝え続けました。
ペトロは、動かされない信仰を持つことができました。
後にペトロは、迫害に遭い、離散して各地方に置かれたクリスチャンに宛てて手紙を書きました。いましばらく試練で悩むかもしれませんが、その試練によって、信仰が本物として証明され、火で精錬されてもやがては朽ちる金よりもはるかに尊く、やがて主イエスの時に賞賛されると、励まし、慰めました。
そして、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに、愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Tペトロ1:8、9)と、書き送りました。
からし種一粒の信仰があれば、言葉では言い尽くせない魂の喜びを持ち、力を得てどのような環境でも生き抜く力が与えられている事が証しされています。自分の救いと、他の者の救いのために大きな実を結ぶ者とされるのです。
 信仰の実は、聖霊による喜びと平安です。救いの喜びは、内から湧き出でてきて、自分を潤し、他の人を潤すものです。
 Tペトロ1章21節には、「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」とあります。
神はキリストを復活させて下さり、全世界の罪の贖いを成し遂げて下さった方です。私たちもやがてはキリストと共に栄光の姿に変えられて行くのです。ですから、私たちの信仰と希望は神にあることを覚えて参りましょう。信仰をもって、キリストとその御言葉に従う日々であり続けましょう。
からし種の信仰があるなら、神の御業は起こるのです。
私たちのために神はすばらしい事を備えていてくださいます。
神を信じ、神を見上げましょう。私たちの信仰と希望は神にあることを覚えましょう。


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