阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年10月28日
この上ない喜び
ヤコブ1章2節

 人は誰でも、日々の生活で自分にとって楽しい事や嬉しい事が多い方が良いと思っています。楽しい事、嬉しい事もたくさんありますが、一方苦しい事や予期せぬ苦しみが襲ってくることも多いのではないでしようか。
ヤコブの手紙の宛先は、離散している12部族へと記されています。
使徒言行録によれば、ペンテコステの日に聖霊が注がれて3千人が主イエスを信じて教会が建て上げました。
信者たちはイエスをキリストと信じ、喜びに満ち溢れて心を合わせて、神を礼拝し、祈りに励みました。ところがそれを喜ばない宗教指導者や、律法学者たちは、迫害の手を伸ばしてきました。
 執事として選ばれたステファノは、信仰と聖霊に満ちている人として紹介されていて、ギリシャ語を話すクリスチャンたちの世話を任された7人のうちの一人でした。ステファノは、教会内で人々をお世話するだけではなく、恵みと力に満ちて、教会外でも多くの働きをする人でした。  御言葉とその知識においても優れていて、反対する人々と議論をしても、知恵と聖霊によって語るので、だれも太刀打ちできませんでした。それで、ユダヤ人たちは、ステファノが神を冒涜したと偽証させて、議会に引き出しました。
ステファノは、旧約聖書から始めてイエスこそメシアであると語りましたが、ユダヤ人は激しく怒り、石打ちの刑に処してしまったのです。この時、石を投げる人々の上着を預かったのが、後のパウロ、この時はサウロという名の若者でした。
 ステファノの時から大迫害が起こり、使徒以外のクリスチャンはエルサレムから地方へと散らされていきました。人々は福音を語りながらあちらこちらへと散らされて行きました。
もともとユダヤ人は世界各地に定住していました。彼らはディアスポラと呼ばれていて、この人たちに離散したユダヤ人クリスチャンが福音を伝えながら群れをつくり上げて行ったのです。迫害されても福音は拡大していきました。
 聖書は常に「喜びなさい」と教えています。嬉しい時だけではなく、どのような時も喜ぶことが示されています。外国に散らされて、毎日苦労しているクリスチャンたちにも、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(Tペトロ1:2)と書き送りました。
この手紙の著者はヤコブですが、彼は主イエスの兄弟であるヤコブです。ヤコブは最初主イエスを受け入れなかったのですが、やがて悔い改めてエルサレム教会の要となる者と変えられました。伝承によれば、執り成しの祈りのためにひざまずき、祈り続けるヤコブの膝はらくだのこぶのようになり、義人ヤコブと呼ばれたのです。
 さまざまな試練があります。私たちの苦しみの原因となるものを試練と考えることができます。
 人間関係で苦しんだり、経済の問題で苦しむことがあるかもしれません。思いがけない病気で苦しむかもしれません。御言葉はそのような時にこれ以上ない喜びと思うようにと教えているのです。
神は愛する子を父として訓練されるのです。私たちは主イエスを信じ、聖霊によって父なる神を「アッバ、父」と呼び、神の子とされました。
ですから、「天の父よ、父なる神よ」と祈ることが出来ます。私達は養子ではなく、神の実子なのです。真の父は愛する子に信仰の訓練をなさいます。
訓練は、嬉しいものではなく、つらいものです。父である神は、愛する子を訓練し、ご自分の聖さにあずからせるため神の義と平和に満たされるというすばらしい実を結ばせるために、訓練されるのです。
 私たちの信仰とは、神の御言葉を聞き、信じて生活することです。神の言葉を聞き、知っていてもそれが生活でなければ信仰の歩みとはいえません。信仰によって生活するために、神は私たちを訓練してくださいます。
もし、今試練の中にあるなら、自分は神の実子であることを確信できるのです。信仰の訓練であることを確信するのです。
 目的のない訓練などありません。そして、神は、10キロしか持つことのできない人に、いきなり100キロの重さを持たせることはないのです。
試練の中にある時、孤独を感じ自分だけで耐え、戦うような思いを持つ人がいるかみしれません。しかし、一人の戦いなのでしょうか。どのような時にも主イエスは共におられて、苦しむ時には共に苦しんでくださるのです。
イザヤ書43章には、「ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神 イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」(イザヤ43:1−3)とあります。
 神は私たちを創造された方です。ヤコブよ、イスラエルよ、と呼びかけ、重ねてご自分が創造されたことを語って下さいました。神は、私たちを罪から贖い、ご自分のものとして買い戻して下さった方です。水の中、大河の中、火の中を歩むとは、大変な試練の中を歩むことを示しているのですが、たとえそのような事態であっても、「わたしはあなたと共にいる」と約束してくださいました。真の神、力ある全能の神が共にいて下さることほどすばらしい事はありません。
主が共におられるのに、試練の中に自分が孤独であると思う事は、不信仰であると考えることが出来ます。決して大水に押し流されることはなく、炎に焼かれることもない事を信じるのが信仰です。
 私たちの試練は、やがて神の栄光となり、神がおられることの証しとなるのです。
 このように、私達も試練を通して生ける神を体験できることを覚えたいのです。
 戦いは苦しいものですが、勝利という結果が待っている戦いは楽な戦いといえるでしょう。試練には勝利が約束されています。
 主イエスは勝利宣言をされているのです。すでに世に勝利されました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と宣言されたのです。
 そして、もう一つの大きな戦いである、死についても勝利が約束されています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(Tコリント15:54−57)
 死はキリストの命に飲み込まれて何の力もない事が示されています。人は死に勝つことは出来ないと思うのです。しかし、死はキリストの圧倒的な勝利に飲み込まれてしまいました。永遠の命の勝利です。
キリストを信じる者は、永遠の命と復活の希望に喜ぶことが出来るのです。
 試練は必ず勝利に終わります。主にあって希望を持ちましょう。試練と同時にすでに逃れる道が与えられていることを感謝するのです。
 試練をこの上もない喜びと思う信仰は、勝利の信仰です。
私たちがこれまでに体験した試練はこの世にあるものでした。世の中に常にある事なのです。耐えられないようなものはなかったはずだと御言葉は語っています。耐えられたからこそ今あるのです。
神は真実な方ですから、「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Tコリント10:13)とある通りなのです。
 試練の中にあっても、これ以上ないほどの聖霊の実である喜びに満ち溢れて、信仰によって歩んでいきましょう。やがてその歩みを振り返り、真の神であるイエスが、どのように助けて下さり、勝利させて下さったかと、圧倒的な勝利と喜びを知る信仰に生きる事ができるのです。

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