阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年11月4日
無償の贖い
ローマ3章21-26節

 ローマの信徒への手紙は、「信仰による義認」ということが記されている手紙です。律法によって義とされるのではなく、主イエスの十字架の贖いによって義とされるという事が語られています。
 ユダヤ人たちは律法を守ることによって救われると考えました。しかし、完全に律法を守ることはできないのです。
 神は旧約において、十戒をお与えになりました。まず、①私のほかに神があってはならないとあります。②どのような像をも作ってはならない、それを拝み、ひれ伏し仕えてはならない。③神の名をみだりに唱えてはならない。④安息日を厳守する事。
 ⑤父と母を敬う事。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨偽証してはならない。⑩貪ってはならない。これらは出エジプトの途上のシナイ山で、モーセを通して与えられたので、モーセの十戒と呼ばれます。
 たった10の戒めです。最初の4条は神に対する姿勢について教えられています。後の6条は人に対する教えです。
真の神を神とし、この方だけを崇め礼拝する事、恐れかしこむことが教えられ、次に人が人に対するべきことが教えられています。
しかし、人はこれを守ることができません。
 神が厳しく偶像礼拝を戒められているにもかかわらず、人は数えきれないほどの偶像を造り続け、それに礼拝をささげているのです。
5条以下の事を大切に心に留めて、そのようにするなら、人間同士の多くの問題は起きません。互いに尊重し、尊敬し合うなら、問題は起こらないのです。
 ユダヤ人はさらにこの十戒に加えて、多くの細かい戒めを作り、守るようにと人々に教えました。食事の前に念入りに手を清める事や、市場から帰った時には身を清めてからでないと食事をしない事など。これらは「昔の人の言い伝え」であると、主イエスは言われました。
主イエスは、「昔の人の言い伝え」を厳格に守ることによって、かえって神の戒めを無にしていると指摘されているのです。
昔の人の言い伝えとは、人が作った規定にすぎません。
それにがんじがらめになっていても、そこには救いはありませんでした。
 神の律法は、人にその罪を自覚させるものだからです。そして、律法は人々をキリストへと導く養育係であると、ガラテヤ書にはあるのです。
神の救いの約束がキリストによってもたらされるためであったのです。
 主イエスを信じる者には、その信仰によって神の義が与えられました。
罪の問題が完全に解決したのです。人は生まれながらに罪人であって、神の義とは関係ない生き方しかできないような存在でした。
正しい事がわかっていても、それが出来ずに間違った道を選ぶ、あるいはその方が楽だからと、正しくなくても楽な道を行くようなことがあるかもしれません。真の神がおられて、救いの手が差し出されているのに、信じる事が出来ない人がたくさんいるのです。救う事ができないような偶像に向かい、救いを祈るような多くの人々がいます。
 そもそも罪がわかりません。多くの人は自分を他の人と比べて、あの人よりはましだとか、あの人はダメな人だとか評価することがあります。人の評価は人と比べてはかるものではありません。これほど不確かな事はないのです。人の評価は神がされる事です。
 ローマ書には、「正しい者はいない、一人もいない。」(ローマ3:10)とあります。これは詩編14編の引用ですが、「主は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩編14:2,3)とあります。
 神は、神を求める者はいないかと捜されるけれども、誰もいない。神を求め、御心を行う者はいなかったと言われているのです。
 神がご覧になるのは、人の顔かたちでしょうか。外側でしょうか。神がご覧になるのは、人の内側、心です。外側がどのように整っているように見えても、心の中に罪がない人はいないのです。ローマ書1章26節以下には、人の罪が記されています。神を認めない事や、不道徳な事、貪欲、悪意、陰口、人を非難し、侮り、高慢、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲などと記されて、これらの一つに当てはまらない人はいないのです。
 このようなことを行う者が死に価することを知っていながら自分で悔い改めないばかりが他の人の行為も認めていると指摘しています。
 どうしようもなく罪深い人のために、神はイエス・キリストをこの世にお遣わし下さいました。
 魂が救われるためには、何かしなければならないと普通考えがちです。罪が赦されるためには、厳しい修業がいると考え、それが終わったら赦されるというようなことも考えるでしょう。
 人の罪は、どのようにしても何をしても、消え去ることはありません。
イエス・キリストの贖いの業によってのみ許され、神に義と認めていただけるのです。
 神の義とは、神の正しさにあずかり、神との正しい関係に入れられるという事を表します。罪人であって、滅びても仕方がないような者を神は憐み、惜しみ、救いの方法を与えて下さいました。
「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(ローマ3:25)とあるように、神はキリスト、救い主をこの世に賜り、十字架の贖いを成し遂げて下さいました。主イエスの十字架のみが人の罪を赦し、贖うことが出来るのです。
 フィリピの牢屋番は、パウロとシラスの前にひれ伏して、「救われるためにどうしたらよいのでしょうか」と聞きました。
 ぜひ救いが欲しい、罪の赦しが欲しいと願ったのです。パウロたちは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と答えました。
 主イエスを信じるとは、この方こそ救い主であり、自分の罪のために十字架に架かって死んでくださった、そして、三日目に甦られて、今生きておられる方、すべてを治めておられる全能の神であると信じる事です。主イエスの十字架の血潮により、すべての罪が赦され、神と何の妨げもなく、正しい関係に帰ることが出来た、そのような者は神との交わりを喜び、「アッバ、父」と呼びかけて祈り、交わり、御心を求める事ができるようにされました。主イエスを信じる者は、神から義と認められた者なのです。心は聖霊によって喜びに満たされ、常に力を頂き、勇気をもって歩み続ける事ができます。
 神の義は、人の業や、ましてや行いによって得られるものではありません。昨年は、ルターの宗教改革500年ということで、あちらこちらでルターの名やそれに関する記事が掲載されたりしました。
 罪が金で赦されるという贖宥状というものが堂々とまかり通ったのはなぜかと考える時、神の御言葉にあまりにも無頓着な教会や宗教者であり、この世の権力のみに生きていたからと考えられます。
 神の御心は、御言葉によって示され、また、祈りの中に教えられます。
御言葉なしの信仰はありえません。主イエスは、私たちが求めるべきは神の国と神の義であると教えてくださいました しっかり、祈りながら御言葉を待ち望み、御言葉を行う信仰はかけがえのないものとなります。この世にあっての勝利者です。
 神は高慢な者を退けられ、遜る者を引き上げてくださいます。主イエスの十字架の前にひれ伏し、私達は自分の罪を探っていただいき、常に悔い改める事の大切さをおぼえなければなりません。
 私たちは主に仕える動機は、主イエスに対する愛という動機です。贖われた者として、自らを最上のものとしてささげたいのです。
 ただ主イエスを信じる信仰によって、義とされ、永遠の命を得たことを無上の喜びとし、ひたすら主イエスを見上げてこれからも歩みたいと思います。
 御子の血により、無償で義とされた者として、神に栄光をささげ、賛美をささげ、感謝の声をあげて進んで参りましょう。


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