阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年11月11日
いのちの言葉
ローマ10章8-13節

 人は神に創造された霊的な存在です。人は、全能の神と交わるために創造されたのです。神の栄光を現わす者として造られました。
「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し 形づくり、完成した者。」(イザヤ43:7)と、あります。
 神は人に命の息を吹き込まれ、人は生きる者となりました。
ところが、罪が入り、人は神と断絶し、神の恵みから離れ、滅びの道に進まなければなりませんでした。
 神は救いの道を開いて下さり、イエス・キリストをこの世に遣わされて、信じる者の罪をことごとく赦して、神との正しい関係に戻して下さったのです。
 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリストイエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」(ローマ3:23)
 創造主である神が、人に与えられた機能として突出(とっしゅつ)しているのは、言葉が与えられたということだと思います。
 多くの生き物が存在しますが、意味のある明瞭な言葉を語ることができるのは、人間だけです。
 生まれて間もない幼子でも、数か月すると、片言を話し、1年、2年もすると、言葉で意志を伝えられるようになります。
また、人は、周囲の人々からの語り掛けで、人格が形成されていくのです。幼児期に、否定的な言葉や、心が傷つくような言葉ばかり受けて育ったら、その心の中には自分は愛されない存在だという価値観が植え付けられてしまうに違いありません。
 また、愛されすぎて言葉にも態度にも無頓着というのも、問題を起こします。旧約聖書に登場するヨセフは、ヤコブの11番目の息子でした。ヤコブが年を取ってから生まれた息子なので、どの息子より愛し、晴着を着せて可愛がりました。ヤコブは夢を見る人でしたから、ある日お兄さんたちに、兄さんたちの束が畑で自分の束にひれ伏したと語りました。また、太陽と月と11の星がわたしにひれ伏したと語ったのです。
この言葉をによって、兄たちはますますヨセフを憎み、やがてエジプトに売ってしまうというようなことが起きてしまいました。
 後にエジプトの宰相となったヨセフは、兄さんたちに、飢饉から救うためにあらかじめエジプトに送られたのは神だから、神のご計画であると語り、和解することができたのです。
 ヨセフは本当の事を語ったのですが、配慮がなかったので、兄さんたちの心に更なる憎しみを植え付けてしまいました。
 人は、さまざまな言葉を聞き、心にとどめそれによって人格を作り上げていきます。どのような言葉を聞くかは本当に大切な事です。
人が幼い時から、命を与える神の御言葉を聞くことができるなら、それは本当に幸いな事です。
 人は霊的な存在ですから、食べ物を食べることだけで本当の意味で生きる事はできません。神の口からでる一つ一つの言葉によってのみ、生かされるのです。
主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えてくださいました。
 霊的な満足は、神の御言葉を頂くことによって得る事ができます。
人が自分に自信を持てないときに、神は語り掛けてくださいます。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4口語)
 真の神が私たちに一人一人に、あなたは「高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけていてくださるのです。これ以上のことがあるでしょうか。
人は、自分で不遇であると思ったり、疎外感を感じたりすることが時々あります。自分だけが不幸だと思う事もあるのです。
 しかし、神が私たちを見放すことはなく、「高価で尊い、愛している」と語り続けて下さるのです。そして、それは、言葉だけではなく、実際に心を充足させて下さり、平安と感謝の中に憩わせて下さいます。
 神の言葉は、今日語られて、あしたは変わってしまうようなものではありません。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Tペトロ1:24、25)
この世のものはすべて、移り変わり、失せてしまうものですが、神の言葉は永遠に変わる事はありません。
 大切なことは、神の御言葉を聞き、それを心の中心にいただき、御言葉によって生きていくことなのです。
 すでに、イエス・キリストを心に受け入れ、信じている人々は、なおさら祈りつつ御言葉を待ち望みます。そして、日々御言葉を生きる事に取り組むのです。
 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(ローマ10:8)とあります。この言葉は、申命記30章4節の言葉から引用されています。
申命記には、「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」とあるのです。
申命とは、繰り返して命じるという意味です。出エジプトをしたイスラエルは、40年間の荒野の試練を終えて、やっとヨルダン川の東側モアブまでたどり着きました。モーセはここで、イスラエルの民たちに、過去を振り返り、また悔い改め、神がここまで導いてくださったことを思い返し、ヨルダンを渡って導かれる地に入っていく心構えを伝えたのです。
 いよいよ約束の地に入る時、神の御言葉によって進むことが教えられました。申命記30章は神の祝福と呪いについて記されている有名な箇所です。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたが入って行って得る地で、あなたを祝福される」(申命記30:15、16)。とあり、もし、心が変わり、偶像にひれ伏して仕えるなら滅びの道に歩むと教えられたのです。「あなたは命を選びなさい」(申命記30:19)と厳かに宣言されたのです。
 主は、「あなたは命を選びなさい」と語り続けておられるのです。
神はすべての人が命を選ぶことを願っておられます。罪のために神と断絶し、今も滅びに向かって進んでいる人が多いのです。救いの道を行くよりも儚いこの世の喜びを求めて歩む人が多いのです。
私達は、この世に向かい、「いのちの言葉」を語ることができます。それは、イエス・キリストの言葉です。
 キリストの言葉には力があります。命があるのです。人を救う事ができる真の言葉です。
国籍に関係なく、それまでの生き方に関係なく、イエス・キリストを呼び求める者すべてに永遠の救いが用意されています。
 主イエスは、私達にいのちの言葉をゆだねてくださいました。私たちを通して救いの御言葉を届けて下さるのです。
モーセが神に召された時、なかなかすぐには立つことができませんでした。「わたしは口下手なのです」と言ったのです。口が重く、舌が重く、もともと弁が立つ方ではありませんと言いました。
神は、「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(出4:11、12)と言われたのです。それでもモーセが固辞すると、神はアロンを口として用いてくださる事を約束して下さったのです。
 私たちが神の言葉を携えていくとき、神が共にいて下さるのです。そして、必要な助けは備えられています。聖霊が共におられて語るべきことを教えてくださいます。
 人の魂を救う生ける神の言葉をもって、遣わされましょう。
それによって多くの人々が救いを頂くことが出来るのです。用いられることを心より感謝します。


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