阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年11月18日
あしあと
イザヤ46章3-4節

 イザヤ書45章23節に、「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば その言葉は決してとりけされない。」という御言葉があります。神の言葉は永遠に変わることなく、信じる者の心の中に与えられ、恵みとなり、命となります。
 また、「わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった」(イザヤ45:5)とも記されています。万物の創造主が、私達を創造され、力を与えて導かれてきたのに、あなたは知らなかったと、言われているのです。
 かつては、人生の中で、確かに何者かに守られ、支えられて助けられたと思うような体験をしたとしても、それが真の神によるものだと知らなかったのではないでしょうか。全能の神の見えざる御手は、私達一人一人を今日まで支えて下さっているのです。
 人生は良く四季に例えられます。生まれてから20代位は春、50代位までは夏、70代位までは秋、それ以後は冬と言われます。
春の季節にしっかりと学び、備えると充実した夏を迎えられる。夏の間にしっかりと働くと、実りの秋を迎えられる。そして、やがて冬になった時、蓄えた知識や知恵で過ごせるというのが一般的な解釈です。
 そのように教えられても、人はなかなか順調に進むことが難しい事があります。どの季節でも躓い(つまづい)たり、挫折してしまう事も多いのです。
心がくじける事も多いのです。
 しかし、真の神がおられることを知り、イエス・キリストというお方を救い主として信じた時に、だれでも目が開かれ、今までの人生の中に導きの御手があったことを信じる事が出来るのです。それが、春でも夏でも秋でも冬でも、その人生の中に主イエスをお迎えするなら、この方の恵みと命に生かされるのです。
イザヤ書46章3節に、「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ。」と神からの呼びかけがあります。神はともに私に聞けと言われました。
ヤコブの家も、イスラエルの残りの者も、神の民を意味します。神の愛の対象です。
 聖書の言葉は、私達一人一人に対して語られている御言葉なのです。私たちは、主イエスの尊い十字架の血潮によって贖われ、神の民とされました。私たちは神の子とされ、父なる神をアッバとお呼びして近づき礼拝をささげ、祈ることができる者にされました。神は私たちに語りかけていてくださいます。
 真の神は奇跡の神です。私たちがこの世に生を受けたのも奇跡です。私たちを母親の胎内に形づくられたのは神であるとあります。「あなたを造り、母の胎内に形づくりあなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな。」(イザヤ44:2)。神は繰り返し、繰り返し、あなたを造ったのは私であると語られるのです。
 この方は、私達に、「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:3、4)と語っておられます。母の胎内で創造された神は、生まれた瞬間から、白髪となり、老いても背負い、担い、救うお方であると宣言されたのです。
 背負うと、担うとは同じような意味です。両方とも肩に乗せるという意味です。私達は人生の全てにおいて、神に担われているのです。これほど素晴らしく安心なことはありません。
私達のなすべきことは、全能の神に委ねる事です。神の導きは最善であって、愛に満ちているのです。
マーガレット・パワーズというカナダ人の女性が創作した、「あしあと」という有名な詩があります。
「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主と共になぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしたあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしと共に歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番つらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたがなぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが一つだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた」このような詩です。
マーガレットは1964年に、ポール・パワーズと結婚して、詩を書き続けるのですが、転居の時に、詩の入った荷物を失ってしまいました。
その間に、この詩は、作者不明ということで広まっていたのですが、本人は知りませんでした。1985年に、夫、娘とピクニックに出かけた時に、娘が誤って滝に転落してしまいました。その時にポールもショックで心臓発作を起こして入院することになりました。二人とも命は助かったのですが、大変な事になってしまいました。
ポールが入院していた時に、看護師さんが「この詩をお読みになれば元気がでると思います。作者は分からないのですが」と、あしあとの書いてあるカードを渡してくれたのです。
それは、25年前に妻のマーガレットが書いた詩でした。「わたしは作者を知っています」と、思わず叫びました。
その後、マーガレットが原作者であると、なかなか証明できなかったのですが、主に委ねて祈っていると、古いアルバムに挟んであったオリジナルが見つかり、作者として認められたのです。
人生の中で一番つらい時、主は肩に担って運んでくださるのです。
若い時には希望に溢れ、体力も気力も充実して、試練の時も打ち勝っていこうという力に溢れているかもしれません。夏の季節にも、まだまだ力があって、さまざまな事に打ち勝とうと言う気力があるでしょう。秋を迎えると、そろそろ体も弱るかもしれません。冬の季節には、いろいろと力に限界を感じる事があるかもしれません。
 しかし、どの季節であっても、主イエスが共におられて背負って下さっている事を忘れてはならないのです。
一番つらく、苦しい時こそ、主イエスを信じるのです。
「私が担い、背負い、救い出す」と言われるのです。
 私たちが、今どの季節を迎えていようとも、全力で主に従うことが出来ます。
主が共におられることを証しできるのです。苦しみの中にあったからこそ、主イエスを体験することが出来ました、と、主を証しできるのです。たちの全生涯を、責任をもって担って下さる主をいつも見上げようではありませんか。
 試練の時にこそ受ける事の出来る恵みがあるのです。主イエスが生きておられることを知るチャンスです。どのように苦難の中から救い出されるのかを体験するチャンスなのです。
 三浦綾子さんを信仰に導いたのは、前川正という方であったことは良く知られています。平和なクリスチャンホームに育った医師志望の好青年であったようですが、残念なことに結核で召されました。前川さんは3人兄弟でしたが、妹さんも早くに召されていました。前川さんの召天ののち、家が全焼するという災難が襲いました。さらに、お母さんは癌を患って召天されたのです。
辛い事の連続でしたが、お母さんは常に神を見上げて、感謝をささげる信仰に生きました。それは、何事があっても、また、誰も奪う事の出来ない心の平安と感謝と命でした。最後まで主イエスが担って下さる事を信じ抜いた信仰だったのです。イエスキリストこそ救い主であり、私達を担い、導かれる神であることを信じ、崇め、感謝し、頼りましょう。


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