阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年11月25日
光の中に
イザヤ60章1-2節

 光と闇とどちらが好きかと聞かれたら、たいていの人は光を選ぶと思います。来週12月2日から、クリスマスを迎えるアドベントが始まりますが、もうすでに町のあちらこちらには美しいイルミネーションが輝いています。クリスマスを前に光を掲げることが珍しい事ではなくなっています。クリスマス、それは光であると、イエス・キリストを信じていない人々も知っているのです。
 イザヤ60章1、2節は、アドベントで良く読まれる聖書の箇所です。
イスラエルの民はBC586年バビロンに捉えられ捕囚の民とされました。しかし、BC538年、ペルシャによって解放され、帰還が赦されるようになりました。
 帰って来たエルサレムは、崩壊状態でした。預言者は、どこから手を付けて復興していくのかわからない、荒れ果てた故郷に佇む人々に語ったのです。「起きよ、光を放て」(イザヤ60:1)と。
 私たちは、現実の世界に苦闘し、光を見出せなくて苦しむことがあります。しかし、神の言葉は、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と続きます。
 主イエスは、ご自分の事を、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と語られました。イエス様こそ真の光であって、この方を信じ、従う者は決して暗闇の中を歩かない、命の光のなかに入れられると言われたのです。
主イエスは真の光であって、私達はこの方によって光の中に入れられます。
 現実の世界がいかに暗く、見通しが立たないようであっても、主イエスご自身が光であって、道を照らして下さいます。
闇とは、何を表すのでしょうか。暗闇の中を歩むと、どこに危険があるのか分からず、また、どこに向かうのかもわかりません。
 人の罪は闇という言葉で表されます。
 聖書が教える罪は、犯罪ではありません。犯罪は心の罪が形となって表れた結果です。人の心の中にある闇が罪なのです。
 アダムとエバがエデンで罪を犯した時から、罪が世に入りました。
人は生まれながらに罪を持ち、その罪の中心は自己を中心とする事です。罪の心は、すべての利益は我がものでありたい、人を押しのけても良い思いをしたい、自分の思う通りに生きて行きたいなど、すべては自分が中心になってしまいました。
 真の神から離れて、神を受け入れる事が出来ず、自分の思いに従って生きているのです。自分の歩みが闇の中にあることすら気づかずに進み、行きつく先は滅びである事にも気づきません。
 しかし神は、真の救いの道を備えて下さいました。神の側から、救いの橋を架けて下さったのです。
 それは、時が満ちて、神の独り子イエス・キリストをこの世に賜ったことです。救いの光が表されました。
 イエス・キリストは、全世界の罪の贖いとして十字架に架かり、命を捨て、三日目に甦られました。この方を救い主として信じる者は、誰でも闇の中から光の中へと招き入れられるのです。
 罪は、人の心の中に根を張り、戦いを挑み、拭い去ることができないような力があります。しかし、イエスの十字架の血は、どのような罪をも完全に許し、消し去る力なのです。
 主イエスは、心の罪について、教えておられます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:15、16)と教えて下さいました。弟子たちは、イエスが言われた言葉の意味が分からなかったので、お聞きすると、「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは、人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな思い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:18−23)と教えて下さったのです。
人の心の中の罪のために、人は闇の内を歩むことになるのです。人はこれらの罪を何とかしたいと思うのですが、どうすることもできません。
 もし誰かが重病を患い、命の心配をしなければならない時、うろたえ、どこに助けを求めてよいのか分からずに苦しみます。
体については、病院や、医師に委ねなければなりません。その診断と治療については委ねるしかないのです。
 しかし、心の平安はどこからもたらされるのでしょうか。明日は手術をしなければならないという時、誰しもが心配で心を悩ますのではないでしょうか。
 そのような時、自分と向き合い、心の中の罪について考え、イエス・キリストの十字架を仰ぐことのできる者は幸いです。
 それは、荒廃してどこから手を付けてよいのか分からないようなエルサレムの町に佇むような心です。助かるのか、この後どうなるのかわからない。そのような時、主イエスは、「起きよ、光を放て」と言われます。
 闇の中にいて、明日がどうなるかわからないその時、主イエスは真の光、命の光としてご自身を現わして下さいます。
真の光であるイエス・キリストによって照らされて、私たちは命の光を輝かせることが出来るのです。
主イエスは、すべての人を照らす真の光です。暗黒の中にいた民は大いなる光を見出します。闇は決して光に勝てません。イエス・キリストの光に照らされる時、私達もこの光、命の光によって輝くことができるのです。
イザヤ書60章1、2節には、「主の栄光」は、あなたの上に輝く、主の栄光があなたの上に現れるとあります。栄光とは、神が真の救いの神であることがあらわされることです。この栄光はどのように表されたでしょうか。独り子イエス・キリストの十字架であらわされたのです
「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60:2)
罪に覆われた世界は、主イエス・キリストの光によって輝き、主の救いがもたらされました。十字架によって栄光が表されたのです。
私達は、イエス・キリストの十字架によって救いを得る事が出来ました。主の十字架は栄光に輝いています。救いの光なのです。
今、闇の中にいる人々がどれほど多い事でしょうか。罪に苦しみ、心の中に苦しみを抱えて歩む人が多いのです。だから神は私たちに「起きよ、光を放て」と語られるのです。キリストの十字架の救いの光を放てと語られているのです。
イエス・キリストによる以外に救いはどこにもないのです。私たちは主イエスの救いの光に照らされているのです。私たちは主イエスという光を受け入れ、光を放ち、掲げているのです。
「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず 月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となりあなたの神があなたの輝きとなられる」(イザヤ60:19)
光である主イエスが私たちの上にのぼられ、私たちを輝かせて下さるのです。主イエスがお生まれ下さった時、なにも整えられていませんでした。闇の世、罪の世でした。生まれるための部屋さえありませんでした。しかし、主イエスは救いの光として来てくださったのです。
全世界の救いのために来られ、主の栄光で照らすために来てくださいました。私たちはその栄光の輝きに預かる者とされました。
今もこの世は闇に包まれているかもしれません。しかし、闇は決して光に勝つことはできません。闇の中に小さな光が灯されると、そこはもはや闇ではなくなるのです。闇の中に主イエスの栄光の光を掲げる者として、私達は救いの光を受けたのです。
アドベントを前に、「起きよ、光を放て」と語りかけておられる主イエスを改めて心にお迎えし、この命の光を高く掲げ放っていきましょう。


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