阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年12月2日
アドベント第一聖日礼拝
主を待つ 
ルカ2章25-38節

 今年もアドベントに入りました。アドベントは、「待降節」と言って、クリスマス前の4週間を指します。もともとは「到来」するという意味で、主イエスの御降誕を待ち望み、備えるという期間なのです。
世の中では、クリスマスは楽しい時、光の時といった理解で、町では光が溢れます。うきうきとしたクリスマスソングが流れますが、よく聞くと、主を賛美する歌ではなく、サンタクロースがやって来たという歌であったりします。
このような世に対して、先に主イエスを信じ、救いを受けた者たちは、真のクリスマスを発信したいと心から願います。
来週9日には、ゴスペルコンサートが行われます。主イエスの救いを歌い上げ、賛美し、多くの方々に福音を届けて参りましょう。
さて、主イエスは時が至ってこの世にお生まれくださいました。その知らせは、天使により、野宿しながら羊の番をしている貧しい羊飼いたちにもたらされました。
天使は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:10、11)と告げました。これこそが救いのメッセージであり、喜びの知らせ、福音です。
主イエスにより、だれでも罪が赦され、永遠の救いをいただける恵みの時代が到来したのです。
この大きな喜びは、大きな犠牲が伴いました。なぜなら、救いのために主イエスは十字架への道を歩まれ、命を捨てて下さったからです。
ですから、クリスマスは、喜びの時であり、主イエスの十字架を思う時でもあります。自らの信仰を顧みる時でもあるのです。
ユダヤの人々は、メシアが来られる事を預言者たちの言葉によって知っていました。ところが、いつ来られるのかと待ち望み、備えている人々は少なかったのです。ですから主イエスがお生まれになっても、この方こそ救い主、メシアであると信じる事ができませんでした。
イスラエルには、最初に生まれた男児は、その子を聖別し、主にささげるために神殿に連れて行くという律法がありました。幼子は主のものとされ、両親はそれを贖うために銀5シュケルを宮に治め、また、産後の犠牲をささげました。貧しい者は、山鳩のつがいと、家鳩ヒナ2羽をささげました。
多くの人々は、神殿に入って来た幼子がメシアであるとは、気づきませんでした。神殿で定められた律法を行う幼子と両親は大勢いたからです。しかし、二人の老人はすぐにメシアに気づきました。
シメオンは男性です。年齢は記されてはいませんが、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」(ルカ2:25)と紹介されています。
そして、メシアに会うまでは決して死なないという確信を聖霊によって与えられていた人だったのです。
シメオンは両親に連れられてきたイエスを腕に抱き、神を称え賛美しました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のための救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(ルカ2:29−32)と賛美しました。
私は約束通りメシアに会い、すべての人のための救いを見た、と声をあげたのです。そして、母マリアに、十字架を予告し、あなたは剣(つるぎ)で心を刺し貫かれるような思いをするだろうとも語りました。
一方、預言者アンナは女性です。年齢も84歳になっていたと記されています。アシェル族の出身で若い時嫁ぎ、7年間の結婚生活の後、夫に死に別れたとあります。彼女は、昼も夜も神殿を離れずに断食と祈りを続け、神に仕え、人々に神の御心を語る人でした。50年か60年位そのようにしていたのかもしれません。彼女も幼子に気づき、近づいてきて神を賛美し、救いを待ち望む人々にイエスの事を伝えたのです。
シメオンとアンナは、長い、長い時を待つ人たちでした。
私たちは、待つという事が得意でしょうか。多くの人は、待つことは忍耐がいることなので、できれば何事も待つことなく速やかに事が進むようにと願うのではないかと思います。
シメオンとアンナに共通していたのは、神の約束は必ずその通りになるという信仰でした。救い主が到来するという事は、何百年も前から預言者によって伝えられていました。気の遠くなるような昔からです。
旧約聖書にはメシア預言が多く記されています。神の約束、救いの約束です。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威がその肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる。」(イザヤ9:5)預言者イザヤによって語られたこの御言葉は、最も有名な救い主に関する預言です。赤ちゃんが生まれた。この方こそ救い主であって、すべての権威をお持ちの方であり、不思議な助言者、永遠の父なる神、平和の君であると語られたのです。
イザヤが活躍したのは、BC800頃ですから長い年月を経ているのです。しかし、神が語られたらその通りになると信じた人々は、信じて待ちました。
「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」(ローマ4:21)という御言葉があります。これは、アブラハムの信仰について記している箇所です。
アブラハムは多くの国民の父となるという約束が与えられていましたが、約束の子は100歳になるまで得られませんでした。妻のサラも90歳になり、このような高齢の者にどうして子供が生まれるだろうかと思うのが普通です。しかし、アブラハムは神を疑う事をせず、信仰は弱らなかったとあるのです。神が約束されたならその通りになるという信仰を持ち続けました。そして、イサクが与えられたのです。
シメオンとアンナも同じでした。必ず救い主メシアが来られることを信じて待ち続けたのです。
私達はともすると、待たされるという考えに縛られて心が騒ぐことがあります。いつまで待たなければならないのかという思いになるのです。
待ちくたびれてしまうのです。
シメオンやアンナは本当に長い間メシアを待ちました。どのような待ち方だったのでしょうか。
神を信じる事、そして、必ず来られるという希望を持ち続けるという待ち方でした。楽しみにしながら信じて待つという事が、待ち望むという事なのです。
メシアが来られて、人々の罪が贖われ、信じる者はすべて救われるという恵みの時代を迎えたことは素晴らしい喜びです。
そして、神が約束されたら必ずその通りになるという事を体験できたことはさらに素晴らしい祝福なのです。
シメオンもアンナもこの上ない喜びに満たされました。
私達も、救い主を心にお迎えすることができました。この方を信じ、御言葉を信じ、待ち望むことのできる信仰を持ちたいと願います。
祈りの課題をもって祈る時、いつまで祈るのだろうかと思う事があるかもしれません。神の時があるのです。最善の時に神は答えて下さるのです。シメオンもアンナも今日、メシアにお会いできるとは思っていなかったと思います。それは突然でした。神の時は突然来るのです。
私達のなすべきことは、信仰を持って神を待ち望むことです。
主イエスは、再び来られることを約束されました。約束されてから長い時が過ぎました。しかし、主イエスは突然来られると約束しておられます。シメオンのように、アンナのように、メシアがいつ来られても備えておりますと祈り、待ち望む信仰に生きましょう。
 主イエスは、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(ルカ12:40)と語っておられます。
 私たちの用意とは、主イエスを常に見上げて、目を覚ましている事、主イエスに忠実である事とを心に留めて、クリスマスを前に、主を待ち望む信仰でありたいと心から願い、祈り続けて参りましょう。


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