阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年12月9日
アドベント第2聖日礼拝メッセージ
神に用いられる人々 
ルカ1章26-38節

 アドベント第2週目に入りました。主イエスのお誕生を祝い、待ち望み、また、礼拝の時を感謝します。
 アドベントは、主イエスの御降誕を待ち望み、心を備える時であることは、よく知られているところです。
 先週は、赤子の主イエスを神殿で認めたシメオンとハンナの喜びを分かち合いました。彼らはメシアを心から待ち望み、実際に救い主をお迎えすることができました。
 神は、全世界の人々が罪から救われ、永遠の命を得るために、その独り子を世にお遣わしになりました。御子イエスの十字架の贖いによって信じる者はすべて救われるという恵みの時代を迎えたのです。
 聖書には、神による救いのご計画が実現するために用いられた人々が登場します。不思議な事に神は救い主を人の子としてこの世に遣わされました。
 ガリラヤのナザレという村にマリアという娘さんがいたのです。
彼女は、ヨセフと婚約していました。当時の婚約は、結婚式を挙げるまで一緒に暮らすような事はありませんでしたが、夫と妻であると認められていました。そのようなマリアの許に、ある日突然天使が現れたのです。天使は、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」とあいさつしました。これは、「おめでとう、あなたは、どの女性よりも神の愛と恵みを受けた方です」という意味です。
マリアはこれがどのようなことなのかわかりませんでした。当然だと思います。マリアは心を騒がせました。思いめぐらしたのです。すると天使は、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることはない」(ルカ1:31−33)と告げたのです。
まだ実際には結婚をしてもいないのに、どうしてそのようなことが起こるのかと戸惑うマリアに、さらに天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と語って、神のご計画の許にマリアを通してメシアが生まれる事が語られたのです。
 マリアにとってこれは大変な出来事でした。婚約中の妻が懐胎するなどはありえない事で、律法によれば思い罰を受けなければなりませんでした。
 天使は、神にはできない事はないと語りました。神は、ありえないことをされるお方なのです。どのような事も可能なのです。
マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1;38)とお答えしました。
 一方、婚約者ヨセフは、「正しい人」であったとマタイによる福音書にはあります。マリアの懐妊が公になるとマリアは恥をかき、律法による裁きを受ける事になってしまいます。ヨセフはそっとマリアを離別する決心をしていました。理由を告げないで離縁すれば、非難はヨセフに向けられることを承知でそのように決心しました。マリアをかばう優しい心です。
 しかし、ヨセフの夢に天使が現れて、「恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20−21)と告げました。
聖書は、この出来事は、イザヤ書の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)という預言が成就したのだと教えています。
 ヨセフは、天使が示した通りに、マリアと結婚しました。マリアが神の御心がこの身になりますようにと語ったように、ヨセフもまた神のご計画に従う人でした。
 ヨセフは、天使が「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけているように、ダビデ王家の末裔でしたが、その時代には王族の華やかさなどはなく、貧しい大工として生きていたのです。しかし、メシアがダビデの家系から生まれたことは、神の預言の成就でした。
神は、ご自分の御業を成し遂げるために、人を用いられます。大きな御業のために用いられるのです。
 ヨセフは、ダビデ家の者でしたが、王家の血筋というだけで普通の生活をおくる人でした。一方マリアも特別な人ではありませんでした。
二人ともナザレで一生を送るような人だったのです。しかし、神の召しによって、メシアの両親となったのです。
 なぜ、この二人が召されたのでしょうか。それは、マリアもヨセフも神に対する信仰を持っていたという事です。
 マリアは、メシアの母親になるなど、考えてもいなかったのに、「わたしは主のはしため、御心がこの身になりますように」と、すぐ応答ができたのは、日ごろから神を信じ、救い主を待ち望み、祈りを欠かすことがなかったという信仰の姿勢でした。わたしは恥をかいても、人から蔑まれても、どのようになってもかまわないので、あなたの御心をなして下さいと、自分を明け渡す信仰です。
 ヨセフもまた、正しい人であると紹介されているように、神の前にまっすぐな信仰を持つ人だったのです。マリアを妻として受け入れ、やがてベツレヘムへ行き、イエスが誕生するのです。
 この二人の献身がなければ、救い主の誕生がどのようになったのか分りません。
 神を信じる者に共通することは、遜(へりくだ)った者であるという事です。それは、神の御心、神のご計画を聞いた時、それが自分にとってどのような事であろうと、信仰を持って受け入れ、応答していく信仰です。
 マリアからお生まれになったイエスは、メシアとしての使命を全うされます。
主イエスもまた誰よりも謙遜なお方でした。神であられるのに、僕の姿をとられ、遜って人々に仕えたのです。十字架の死に至るまで従順な姿をとり続けられました。
ある時、主イエスの弟子である、ヤコブとヨハネの兄弟が、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さい」とお願いしました。それを聞いた他の弟子たちは、あの兄弟は、主イエスに高い地位をねだっていると、大変立腹したのです。ヤコブとヨハネも他の弟子たちも、主イエスがこの世の王になり、世界を治めると思っていたので、世的な思いでのお願いであり、またそれに対する反感と憤慨でした。その時、主イエスは、弟子たちに世の中では支配者が民を支配し、権力を振るっている。しかし、あなたがたはそうではなく、偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になり、一番上になりたいと思う者は、すべての人の僕になりなさい。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と語られました。    主イエスはすべての人に仕えるため、十字架で命を捨てるために来てくださったのです。主イエスの謙遜に学ぶ者でありたいのです。
神様は、私達にもご計画をお持ちです。それがどのようなものであれ、       私達も、「わたしは主の僕、はしためです。お言葉通りこの身になりますよう」とお答えする時、豊かな祝福に預かれることを覚えたいのです。   神様は私たちを通してご自分の栄光を現わされ、ご自分のご計画に用いられようとされます。
私達を愛し、その御子さえ賜った神の愛に感謝し、神ご自身を求める祈りと共に、「あなたが私に求めておられることはどのような事でしょうか」と真剣に聞く祈りを続けたいと思います。
アドベント第二週に、主の両親として選ばれたマリアとヨセフの信仰と謙遜、さらに主イエスの十字架に至るまで謙遜であられた御姿を思い、自らの信仰を思いめぐらし、主イエスを待ち望みましょう。


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