阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2018年12月16日
アドベント第3聖日礼拝メッセージ
神の愛を受け取る
Tヨハネ4章7-12節

 アドベント第3週目に入りました。先週は、すばらしいクリスマスゴス・ペルコンサートを行う事ができました。教会が一つになって主の栄光を現わすことが出来るのは、何よりすばらしい祝福です。
 私たちのためにお生まれになった御子をさらに賛美したいと思います。
きょうは、私たちを愛してその御子を下さった神の愛について考えてみたいと思います。
 人はだれでも愛が欲しいと思うものです。物質的に恵まれていても、だれからも愛されていないとしたら、これほどさみしく苦しい事はありません。
リストカットという言葉をご存知でしょうか。自分で自分の手くびを傷つけてしまう行為です。当然傷あとが残ります。
 手くびに何本もの傷跡を持っている人と接したことがありました。もう立ち直っていたのですが、傷あとは消えません。いらだちや、自分で治められない心の状態、心の苦しさから、何度も傷をつけてしまったのです。
 自分の存在に気付いてほしい、苦しさを助けて欲しいという思いの行き場がなくて、自分を傷つけてしまったのです。
 もし、自分が完全な愛で愛され、受け入れられていることを早く知っていたなら、自分を傷つける事はなかったかもしれません。
 人の愛は不完全です。家族の間では、愛が育まれるはずであるのに、愛し合うどころか、憎しみに変わり、家族間で犯罪に繋がるような悲劇が起きてしまう事も多いのです。
愛がわからず、愛されることを一方的に求める事から混乱が起きてしまうのです。救いが必要なのです。
 聖書は神の愛を教えています。完全な愛を教えて下さいました。
その独り子を世に遣わして下さったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(Tヨハネ4:9)とあります。私たちが生きる事ができるために神は独り子を下さったという意味です。独り子を下さったことによって、神の愛が現わされたのです。
神の愛は代償を求める愛ではありません。また、条件付きの愛でもありません。一方的に愛して下さる愛です。
人は、神の独り子、イエス・キリストによって生かされることを覚えたいと思います。
イエスをキリストとして心にお迎えするなら、愛を知らなかった者が、愛を知ることが出来るのです。そして、魂が生かされ愛に満たされます。
神がイエス・キリストをこの世に遣わされたのは、「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」(Tヨハネ4:10)とあります。
罪を償ういけにえとして来られたのです。人の罪が赦されるためには代価が必要なのです。罪の解決がないと、救いはないのですが、厄介な事になかなか罪が分かりません。ですから、罪をあがなういけにえとしてイエス・キリストがこの世に来てくださったことがわかりません。神の愛もわからないのです。
先にイエスを信じた者は、神の愛を宣べ伝えます。しかし、世の人は受け入れません。ここに罪の根本があります。真の神を受け入れる事が出来ないのです。また、イエスを信じていても、その御心に沿って日々を生きているか、信じていると告白しながら、御心と遠い生き方をしているなら、罪の中にいることになります。
罪の解決は誰もが必要です。イエスは罪の贖うために来て下さった救い主です。神の愛の表れなのです。
ペトロの手紙の中には、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Tペトロ1:19)とあります。多くの人は、空しい生活など送っていないと言うでしょう。先祖伝来のむなしい生活とは、真の神を受け入れず、神を神とせず、礼拝することもない生活を言います。神を中心とする生き方ではなく、自分を中心とする生き方を指すのです。自分では充実した人生であると自負していたとしても、罪の支払う報酬は死でしかありません。死の解決はないのです。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:10)
わたしたちが神を知らず、拒むような者であったとしても、アガペーの愛、無償の愛、一方的な愛によって愛され続けているのです。
有名なイエスのたとえ話に放蕩息子の話があります。神の愛を教えるのに、本当に適切な例えです。
そこには、どうしようもなく不敬虔で自己中心な人の姿が示されています。ある人に二人の息子がいました。弟息子は、父親に自分が受け継ぐ財産を求めて、それをもらうと、自分の好きな生き方を求めて遠い国へ行きました。自分らしく生きようと思ったのでしょう。働くこともせず、父親からもらった金で放蕩をしつくしました。財産を無駄遣いしたと、イエスは言われました。それは、財産だけでなく、人生を無駄に使ったという事です。しかし、むなしさに気づく事もありませんでした。これが人の罪の姿です。全財産を使い果たしてしまった時、間の悪い事に酷い飢饉が襲ってきました。彼は食べる事にも困り果てて、人のところに身を寄せましたが、畑で豚の世話をしなければなりませんでした。
当時の律法では、豚は汚れた動物とされていたので、豚の世話をするという事は、考えられない事であったのです。お腹がすいて、豚の餌であるいなご豆を食べたいとさえ思いました。しかし、食べ物をくれる人はいませんでした。
彼は、自分勝手で、父親を悲しませるような者であったのですが、ここで「我にかえった」のです。自分の罪に気がつきました。そして、父のところに帰ろうと決心しました。ここから離れて父の家に帰ろう。「お父さん、わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(ルカ15:18)。こう言おうと決心し、罪の生き方と決別しました。彼には帰る父の家があったのです。足取りは重かったでしょう。
しかし、父は遠くから彼を認めて、憐れに思って走りより、首を抱いて接吻し、息子の悔い改めの言葉を聞きました。父親は、僕たちに「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15:23)と言って喜び迎え、祝宴を始めました。
兄息子は、祝宴まで開いて喜んでいる父に向って不平を言いましたが、父は喜びに満たされていました。非常識とも思えるほどの愛をあらわしたのです。これが一方的な神の愛なのです。最上の着物、指輪、履物は、奴隷ではなく、息子であることをあらわします。
神から離れて自分勝手な空しい生き方を悔い改めて、神の許に帰れた、そして喜んで受け入れてもらえた。これが人に対する神の愛です。
罪の贖いのために、イエス・キリストは、十字架に向かわれ、死んでくださいました。罪を贖うための唯一の方法でした。そして、三日目に甦られ、今生きておられる神なのです。
この方の許に帰るなら、だれでも大喜びで迎え入れ、神の子として下さり、永遠の命に生かして下さる、これが福音であり、神の愛なのです。
クリスマスは、嬉しい、楽しい時です。しかし、それだけではなく、自分の姿を顧み、罪を悔い改め、あらためて神の前に進み出る、敬虔な時です。
神は一方的で、非常識とも思えるような愛でわたしたちを受け入れて下さっていることを思い、愛に生かされ、愛を受け取り、その愛で愛し合う家族であり、教会であり、地域であり、国であるようにと、また、多くの人が父のもとに帰ることのできるクリスマスであるように、さらに祈り続けて参りましょう。


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