阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年1月1日
  元旦礼拝メッセージ
神が望まれる信仰
フィリピ4章4-7節

 2019年おめでとうございます。
昨日、梶本好子姉が84歳の信仰の旅路を終えられて天に帰られました。梶本姉は、病気から、またすべてから解放されて、主イエスの御許で永遠の安らぎを得ている事が、ご遺族や私たちにとりまして、大きな慰めです。
もう好子姉にこの地上ではお目にかかることはできませんが、やがて、永遠の御国での再会を喜べることを目当てにして励みたいと思います。
悲しみと共に、神の恵みにすがり、一年の初めに真の神を礼拝出来る事は何よりの恵みであり、特権です。
心より創造主を崇めて礼拝しましょう。
今年は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16―18)の御言葉を掲げて参りたいと思います。
 主イエスは、世を救うために来てくださいました。人は、罪をもって生まれ、罪の中にさ迷い、混乱し破滅していきます。
 仲良くしなければならない家族が、お互いの主張をぶつけ合って、仲たがいし、赦せず、親子、夫婦が断絶してしまい、家庭崩壊ということが珍しくありません。家族間の犯罪は実に多いという統計が出ています。
人生は、苦しみの連続と言われます。苦しい事や、つらい事、自分の思うようにならないことばかりの人生で、どうして喜ぶことができるでしょうか。
ため息や、愚痴しかなく、それを処理するためにお酒やそのたぐいの店で憂さ晴らしと称することをする人も多いのです。しかし、そのような事で何も解決しません。
主イエスは心の罪をまず解決するようにと、教えて下さいます。悔い改めとは、ただごめんなさいという事ではありません。生き方の方向転換です。自分中心の生き方から、主イエス中心の生き方に方向を変える事です。
モーセは、ヘブライ人の子でしたが、神の選びによりやがて出エジプトのために召されました。
エジプトの王ファラオは、ヘブライ人の数が多くなってきて、脅威を覚え、強制労働に駆り立てたてて酷使し、生まれてきた男の子を殺すようにと助産婦に命令しました。ユダヤ人の助産婦、シフラとプアは、王の命令に従わずに男の子を生かしたので、神は彼女たちに恵みを与えられたとあります。名前が聖書に記されている事は、彼女たちがどれだけ用いられたかを表すものだと思います。
モーセが生まれた時、両親は3ヶ月の間隠していたのですが、隠しきれずに、パピルスのかごに防水をして、ナイル河畔の葦の茂みに置きました。モーセは、エジプトの王女に救い上げられ、実母を乳母として育ち、大きくなったところで王女の許に連れてこられました。
エジプトの宮廷で王子として育ち、一生何不自由なく生活できたかもしれません。しかし、ヘブライ人をかばったことから逃亡し、ミディアンへ逃れて、神から出エジプトの召命を受けました。
ファラオと対決し、出エジプトを果たし、イスラエルの民を約束の地に導き入れる旅は試練の連続でした。民は、不信仰のためにヨルダン河を渡れずに、荒野の旅を40年間続けることになりました。
民は事あるごとにモーセにつぶやき、責め立てるのです、水がない、肉が食べたい、荒野で死なせるために導いたのかと責め立てられました。
ツィンの荒野で、水がありませんでした。水がなければ生きる事はできません。そこでも民はこんな荒れ野にわたしたちを連れて来て、死なせるために連れて来たのか、ここには水も、イチジクもブドウもザクロもないと言いました。なにも祝福がない土地であると言ったのです。モーセとアロンは、神に祈りました。神はモーセに民を集め、杖をとり、目の前の岩に向かって、水を出せと命じよと言われました。その水で人も家畜も潤されると、言われました。ところがモーセは民に向かって、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(民数記20:10)といって、岩を杖で2度叩きました。水は出て、人も家畜も水を飲んだのです。
しかし、神はモーセの行いを戒められました。神の言葉を信じなかったと言われ、民に神が聖であることを示さなかったので、約束の地には入れないと言われたのです。
事実、40年の荒野の旅の後にネボ山の上からはるかに約束の地を見渡して、120歳の生涯を閉じました。
モーセの一生は神に従う生涯でしたが、たった一度御言葉に背いたために約束の地に入れなかったのです。
モーセの失敗でした。どれほど神と共にあろうとも人は失敗します。
あまりに心が生活の事でいっぱいであったり、あるいは苦痛を受けると、人は感情的になります。自分の思いでだけで心がいっぱいになってしまうのです。
そのようなときほど心を見張り、注意し、御言葉を思い、従う信仰でなくてはなりません。
神の御言葉は厳かで恐れなければならない生きた御言葉です。
私達は、いつも神が喜ばれることを考えていきたいと思います。
神が望んでおられることをしていきたいと思います。
聖書は、喜べと教えているのに、それができないで悲しんだり、心をふさいだり、失望したら、それはモーセの失敗のようなものです。
幸い私たちは、主イエスの十字架の贖いがありますから、赦され続けていて、約束の御国の中に生かされています。新約の恵みです。信じる者は誰でも救われるのです。
イエス・キリストにあって、いつも喜んでいる信仰は尊いものであり、信仰の証となります。喜びなさい、重ねて言います。喜びなさいとあるのです。これは十字架の喜び、永遠の命の喜びです。
そして、この喜びはすべての人に知られるのです。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6−7)
これほどすばらしい御言葉があるでしょうか。全生涯、全生活が保障されているのです。全能の神が保証して下さっています。
困難がありますか。喜びましょう。感謝しましょう。心に心配がありますか。神に打ち明けて祈りましょう。将来が不安ですか。心配いりません。人知、人の思いや知識では計れない、神の平安が与えられます。私たちの心も魂も平和に満たされるのです。
神が喜びなさいと言っておられるのに、喜べないなどといってはなりません。私達には、聖霊がお住まい下さっています。
この方は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の霊です。
私達は、この霊に満たされているのですから、喜びも平安もいっぱいに溢れるのです。
 新しい年になにがあるのか今は分かりません。3日には、梶本姉の告別式があります。昨日の朝までは考えてもいないことでした。
昨年は、大きな台風や地震がありました。また自然災害もあるかもしれません。個人の生活の中で激震が走るようなことが起こるかもしれません。
しかし、神は喜べ、重ねて喜べ、祈れ、感謝しなさいと教えて下さっています。それが神が望んでおられる信仰です。
もうすべてに勝利が約束されているのです。
私達は失敗したとしても、主イエスの執り成しと贖いがあることを感謝しましょう。
この一年が終わった時、すばらしい喜びの年であったことが約束されているのです。



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