阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年1月6日
神の憐み、摂理
ヨハネ15章11-17節

 新しい年の主の日に礼拝をささげられる事を心から感謝します。
今年は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:16−18)の御言葉が与えられています。
喜びと祈り、感謝をもって一年を送りたいと思います。
 ヨハネによる福音書は21章あるのですが、最後の食事の場でお語りになった御言葉が13章から17章まで記されています。
主イエスは、十字架の時が近づいたことを悟っておられました。
「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)とあります。
弟子たちをこれ以上ないほど愛され、最後まで愛し抜かれたのです。
そして、しもべのように弟子たちの足を洗って、あなたがたも互いにこのように仕え合わなくてはならないと教えられました。
この食事の場で主イエスは弟子たちに大切な事を教えられました。まことのぶどうの木であるキリストに繋がり、命に満たされる事、主イエスから離れては何もできない事を教えられて、これらの事を主がお語りになった理由を教えて下さったのです。
 それは、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15:11)と教えられました。
主イエスを信じる時、主イエスの喜びが内にあり、その喜びが満ち溢れる日々を持つことが出来るのです。
さらに、互いに愛し合う事、その愛は友のために命を捨てる愛であり、これよりも大きな愛はないと教えてくださいました。
主イエスは、わたしたちを友として受け入れて下さり、友のために十字架で命を捨てて下さったのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)とあるように、主イエスはわたしたちを友として選んでくださいました。
罪とまったく無関係の神の子と、生まれながらに罪を持ち、弱く不信仰な者を友と呼び、あなた方を選んだと言われるのです。
申命記に神がイスラエルの民について語られている箇所があります。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申命記7:6−8)これは、そのまま私たちに対する神の愛の御言葉として受け入れることができます。
神は私たちを宝と呼んでくださいます。イスラエルが強く、数が多く、立派な民だから選んだのではないと言われました。むしろ、弱く、貧しく取り柄のないものでしかなかったのです。
ただ、「あなたに対する愛のゆえ」が唯一の理由なのです。
丁度主イエスが、弟子たちを極みまで愛されたように、愛のゆえに選び、救い、守られるのです。
主イエスは、私たちを僕ではなく友として受け入れて愛して下さいます。そして、私たちを愛するがゆえに選び、今日まで導き支えて下さいました。それは、私たちを整えて、しみやしわやそのたぐいのものは何一つもない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く者、教会として迎えるためなのです。キリストの満ち溢れる豊かさに日々整えられるためなのです。
もし、わたしたちが自分で主イエスを選んだと思っていたらどうでしょうか。人生というものは、選択の連続です。今日は何をしなければならないか、どちらを選ぶのかと考えて行動します。結婚や就職など、一生にかかわるような決心をしなければならない事もあります。何か選ぶとしたらその結果は自分の責任であって、その結果が悪くなったとしても、責任は自分にあります。事態が悪くなると責任転嫁をして自分は悪くないと主張するのですが、選択の責任は自分なのです。
もし、自分が主イエスを選んだと思うなら、その選択の主体は自分にあるのであって、主イエスの手を放してしまうような気がします。
しかし、そうではないのです。主は、私たち一人一人に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と宣言してくださいました。
いつ選んでくださったのでしょうか。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって、神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1:4−7)とあります。天地が創造される前から、キリストにおいて選ばれていた。それは、キリストの十字架の死と復活によって罪赦され、救いの喜びを褒め称え、神ご自身を褒め称えるためであると教えています。
神は私たちを造られた方です。母の胎内で育み、育て、胎内のわたしたちを見ておられ、まだ私たちの生涯が始まる前に全てをご存じなのです。まだ一日も始まっていないのに、すべて知っておられるのです。
「あなたの御計らいは、わたしにとっていかに尊いことか」(詩編139:17)。言葉で言い表せない神の摂理によって創造され、選ばれ、今日まで導かれてきました。神の見えざる御手によって今日まで来ることが出来たのです。摂理とは、神の完全なご計画です。神の恵みと愛によるご計画が私たち一人一人に与えられているのです。私たちは、イエス・キリストによって選ばれているのですから、この方に全てをお委ねして間違いはありません。
「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)
神は常に私たちを愛し、慈しみと憐みをもって支えて下さいます。
私たちは自分の力では実を結ぶことはできません。主イエスが教えられたように、まことのぶどうの木である主イエスにつながり、その命に満たされる事を常に覚える事が大切です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)。
キリストの命に生かされる時、豊かな実を結ぶことが約束されているのです。キリストの命に生かされるなら、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」のです。
2019年がすでに始まりました。12月31日に召された梶本好子姉の告別式が1月3日にありました。ご遺族にとって、教会にとって、本当に寂しいことが実感です。しかし、すべてが神の御摂理であり、悲しみは喜びに変えられます。復活の喜びです。主イエスにつながっている者は、尽きることのない喜びが泉のように心に沸き上がります。
主イエスの名によって願う時、その祈りは御心に適う祈りとして整えられ、清められ、神の栄光を表す結果となるのです。
主イエスが任命して下さった神の使者として今年も恵みと愛、憐みの光の中を歩み続けて参りましょう。
主は、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ15:17)と厳かな命令をお与えになりました。まことのぶどうの木につながっているなら、愛の実を豊かに結び、愛し合う事の中に神がおられることを表すことができることを確信いたします。


 ページのトップへ
  
2019年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ