阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年1月13日
年を重ねても
ヨシュア記14章6-15節

 神はモーセを召し、出エジプトの指導者として用いられました。神は、エジプトのファラオの圧政に苦しむイスラエルの民のうめきを聞かれて、エジプトを脱出させ、約束の地カナンへと導き出されました。
 エジプトからカナンまでは、500キロ位の距離でした。丁度東京、大阪程の距離で、2週間あれば到着することが出来るはずでした。
ところが、カナンに入るまで、40年間もかかりました。
それは、不信仰のためにヨルダン河を渡ることが出来ずに、荒野での信仰の訓練が必要だったからです。
モーセは神から示されて、パランの荒れ野で、12部族のリーダーをこれから入ろうとしているカナンの地へ斥候として送り込みました。
40日の後彼らは帰って来て、モーセとイスラエルの民に報告をしました。持ち帰った豊かに実った果物も見せたのです。
10人の斥候は、「私たちが見て来たカナンは、乳と蜜の流れる素晴らしい土地であって、豊かな実りもある所だ。しかし、そこに住む人々は大きく、自分たちはまるでいなごのように思えた。彼らもそう見たに違いない」と、悪い情報を語りました。ところが、ヨシュアとカレブは、民全体に、「私たちが見て来た土地は素晴らしい所だった。主は我々をあの土地に導き入れて与えて下さる。主に背いてはならない。あの住民を恐れてはならない。主が我々と共におられる。」と語りました。
イスラエルの民全体は、ヨシュアとカレブの報告より、他の10人の報告を受け入れ、大きな声で泣き言を叫び続けました。「エジプトで死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。さあリーダーを立ててエジプトへ帰ろう」と互いに言い合ったのです。
奴隷としての苦しみの中から救い出されたのに、また、その暗黒の中に帰ろうとする、人の愚かで、神を信じない罪を表すのです。
キリストの十字架によって贖いだされたのに、信仰の試練があると、元の罪の中に帰ろうとする、人の弱い心を表します。
結局、イスラエルは40年の間荒野での訓練を受け、大人の世代は約束の地に入ることが出来ませんでした。ただし、ヨシュアとカレブだけは別でした。
この出来事は、私たちに信仰について教えています。信仰とは、神が約束されたら必ずその通りになる事を信じて行動することです。目に見えるところがどのように恐ろしく思えても、神が与えたと言われるなら、信仰を持って前進するべきなのです。
神は常に共におられて助けて下さる。「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」と励まし、勝利を与えて下さるのです。
私たちは勝利するクリスチャンでありたいのです。
やがて時が移り、40年が過ぎ去ろうとしていました。モーセは、ピスガの頂で約束の地を見渡し、120年の生涯を終えました。
モーセはヨシュアに按手し、ヨシュアは後継者として立てられました。ヨシュアは知恵の霊に満ちていました。(申命記34:9)
ヨルダンを渡り、約束の地に入る時、神は「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:7−9)と語って下さいました。神の言葉を忠実に守ること、それは強い心雄々しい心によって保たれる信仰の姿勢です。神の言葉を喜び、一日中口ずさむことが最大の力となります。
信仰は、神の霊によって満たされる勇気と力です。聖霊は恐れる霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのです。
ヨシュア記を通して、信仰によって勝利していく人生が教えられています。
御言葉は、神に忠実であることを教えていますが、忠実とはどのようなことなのでしょうか。
罪の中から救われたら、かつての罪の生活を慕うということは忠実ではありません。主イエスの十字架で罪赦されて、永遠の命をいただいたという事実を軽んじてはならないのです。
主イエスは種を蒔く人のたとえ話をなさいました。道端の種については、御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取ると教えられました。石地に蒔かれた種は、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐ躓く人であり、茨の中に蒔かれた人とは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人であると教えてくださいました。良い地に蒔かれた種は、御言葉を聞いて悟る人であり、100倍、60倍、30倍の実を結ぶと約束されたのです。
ヨシュアもカレブも若い時から信仰の人でした。10人の斥候がどれほど悪いニュースを流しても、信仰によって進もうと主張し続けました。
2週間で、約束の地に入れたはずなのに、荒れ野で40年間放浪しなければならなくなっても、その中で忍耐の時を過ごしました。
信仰には忍耐の訓練が必要です。忍耐とは、ただ苦しい事を我慢するのではなく、神の約束を待ち続けて必ず手に入れる事が出来る事を楽しみに待つ忍耐です。
 ヨシュアが老人になった時、神はヨシュアに「あなたは年を重ねて老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」(ヨシュア13:1)と言われて、その土地の名を挙げられました。
ヨシュアは奮い立ったのです。
また、85歳になったカレブがヨシュアのもとを訪れ、「今日、わたしは85歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます」(ヨシュア14:10−12)と語りました。かつて偵察に行った土地を与えてくださいと願ったのです。
ヨシュアはカレブを祝福してこの地を与え、戦いは収まりました。
カレブはイスラエルの神、主に従い通したとあります。
 信仰を守り、主に従い続けていくには、戦いがあり、また忍耐が必要です。
私達も、信仰の戦いがあります。その戦いは勝利が約束されている戦いです。年を重ねても、常に勝利が約束されています。
私たちは、神によってイエス・キリストに結ばれて、キリストは私たちにとって神の知恵、義と聖、贖いとなられたのです。私たちの肉の体は年ごとに衰えていくかもしれません。しかし、内なる人は、日ごとに新しくされます。私たちはカレブが「私は何も衰えていません。今なお健やかです」と語ったように、私達の魂は健やかであり、日ごとに新たにされています。
救い主であるキリストが内におられるからです。
信仰の戦いは、宣教の戦いとも考えられます。
宣教は祈りです。魂のために執成す祈り程すばらしい祈りはありません。
祈りは戦いであると考えられます。これは年を重ねても戦える祈りです。救いが必要ではない人は誰一人いません。私たちは信仰をもって祈り続けます。日ごとに新しい力に満たされて、倦むことなく祈り続け、また、救い主の素晴らしさを語り続けます。年を重ねても変わらない信仰の姿勢です。
 2019年、私達は信仰の戦い、宣教の戦いを続けて参ります。
あなたが救われて欲しいと熱心に祈り続けている人が救われるという素晴らしい年となるように、信じて祈りましょう。
ヨシュアとカレブが、主が与えられたなら、必ずその通りになると言って信じ抜き、実現したことを体験できるのです。
信仰は勝利です。イエスは勝利の主です。信仰の年となることを信じ、前進しましょう。


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