阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年1月20日
感謝に溢れる
ルカ17章11-19節

 主イエスは私達に、いつも喜ぶこと、祈る事、感謝することを教えてくださいました。
今年、私達には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:16−18)の御言葉が与えられています。
クリスチャンの証しは、喜びと感謝、祈りにあります。主イエスを信じる者は、聖霊の喜びが魂の中にあふれ出て来るのです。聖霊は喜びの霊です。
 今年は私達一人一人にとって、どのような年であるのかわかりません。日本全体にとっては、天皇が退位されて、年号が変わるのだけは分かっています。
 これからも行く手を導かれる主を見上げて進む者でありたいと思います。
さて、主イエスはエルサレムへ行かれる途中、サマリアとガリラヤの間を通られました。
イスラエルの地図を思い浮かべていただくとわかるのですが、中央にヨルダン川が流れていて、その上、北にガリラヤがあります。主イエスはガリラヤのナザレでお育ちになりました。ヨルダン川の西側がサマリアです。ガリラヤのナザレは、ヨルダン川の西側にありますから、同じく西側にあるエルサレムへはそのまま南下すればよいのではと考えられます。ところが、当時のユダヤ人は、サマリアを不信仰で汚れた民として、決して受け入れず、わざわざヨルダン川の東に渡り、サマリアを避けてまたヨルダン川を渡ってエルサレムへ行くという方法をとっていました。サマリアは通らないのです。
 ところが、主イエスはガリラヤとサマリアの間を通られたのです。
主イエスの御心の中には、ユダヤもサマリアもガリラヤもありませんでした。皆同じ大切な愛の対象だったのです。
 ユダヤの民は、サマリアの人々を軽蔑していましたが、ガリラヤとサマリアの間には、さらに人々から見捨てられた人たちがいました。
 それは、重い皮膚病を患い、社会の中で生きる事が許されない人々でした。レビ記の規定によれば、その病に侵された人は、「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です。』と呼ばわらなければならない。」(レビ13:45)とあるのです。
 そして、この人達は、宿営、即ちユダヤのコミュニティーの外で生きていかなければなりませんでした。
人が苦しむのは、どのような時でしょうか。さまざまな問題を抱えて悩むことがあります。生きている限り、病気や経済的な問題などがあります。そのような問題も苦しいのですが、心を許して相談し、打ち明けられる人がいたら、どんなに慰められるでしょうか。
本当に苦しいのは、誰からも見捨てられて、忘れられ、生きていながら死んだ者として扱われる事ではないでしょうか。まったく希望を見出せない事ほど苦しい事はないでしょう。
 聖書の時代、この「重い皮膚病」にかかると、生きながら死んだ者になってしまい、まったく希望はなく、暗闇のような日々を送るほかありませんでした。
 病気と絶望の中にいた10人の人が、ある村で主イエスを出迎えました。主イエスの噂を聞き、あの方は病気を癒して下さる方であると望みをもったのです。
 主イエスが来られても、そばに行くことはできませんでした。遠く離れて立ち、「イエス様、先生、どうかわたしたちを憐れんでください」(ルカ17:13)と、声を張り上げました。
 主イエスは、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのです。この病が治っているかどうかの判断は祭司がすることになっていたからです。祭司が完治していると認めれば、社会復帰ができました。生き返ることができたのです。
 10人は、祭司のところへ行く途中で「清められた」ことに気づきました。長年苦しみ抜いてきたことが、主イエスによってたちどころに解決したのです。
普通、病気は癒されるという言葉を使います。このところでは、「清められた」と記されています。
いまわしい、汚れた病気であるとされていたので、これが癒されることを「清められた」と表現しました。
 重い皮膚病とは、顔や手足が変形したり、欠損してしまうという病気でした。見たところが非常に悪く見えるので、人々から恐れられ、また、汚れた病とみなされていたのです。
主イエスがこの村に来られたのは、この10人の為であったかもしれません。病気から解放し、絶望から希望へ、死から命へと変えられるためであったと考えることが出来ます。
 重い皮膚病とは、人の外見が非常に恐ろしく変わってしまう病気です。
主イエスは、人の外見でその人を評価されるのでしょうか。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(Tサムエル16:7)という御言葉があります。
 これは、ダビデがイスラエルの第二代目の王に選ばれる時に、神がサムエルに語られた言葉です。人は人の容姿や背の高さを見るが、私(神)はそのようには見ない。心を見るのだと言われたのです。
神は心をご覧になる神です。いくら外見を整えても、神は心を見られて全てを知っておられるのです。
心の中に醜い、汚い罪があるかないかを探っていただかなくてはなりません。醜い所、汚い所はあまり見せたくないのが人間です。
しかし、心の中に罪があるなら、それは主イエスの十字架によって許していただかなくてはなりません。
罪は心の中にあります。神に背く思い、不信仰、自己中心です。神の御心に沿う事が出来ないなら、それは悲しむべきことです。
 「神よ、わたしを極め わたしの心を知ってください。ご覧ください わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを とこしえの道に導いてください。(詩編139:24)
 この御言葉のように、「私をご覧になって下さい。私の中に罪があるかどうか、とことん極めてください」と叫び求めることは素晴らしいことなのです。
主イエスは、叫び求める10人に、祭司のところに行って体を見せるように言われました。彼らはそこへ行く途中で清くされた、癒されたのを知りました。
その中の一人は癒された、清められたことが嬉しくて、大声で神を賛美しながら主イエスのところへ戻ってきました。そして、主イエスの足元にひれ伏して感謝したのです。この人はユダヤ人から軽蔑されているサマリア人でした。主イエスは、「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかには神を賛美するために戻って来た者はいないのか」と言われたのです。そして、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と宣言してくださいました。このサマリア人は、主イエスの御言葉と力によって体も心も癒され清められたことが、本当にうれしく、体が震えるほどの喜びと感激に満たされました。どうしても主イエスの許に戻って感謝をささげたかったのです。
 残りの9人もうれしかったでしょう。そして、どこに行ったのでしょうか。それぞれ自分が思う所、心を置いている所へ戻りました。罪と汚れから解放されても、またもとに戻るなら意味はありません。
救い主の許に行き、新しい出発をし、新しい生活を始めるのです。それは、主イエスの栄光を表し、救いの喜びに満たされた証しの生活です
癒され清められたサマリヤ人は、生きている限り、主イエスにお会いしたその体験を語り続けたことでしょう。
喜びは力です。感謝は証しです。イエスの名による祈りは聞かれます。
主イエスの十字架によって罪が清められ、永遠の命をいただいたこの喜びを、日々の生活の中で証しし、感謝に溢れる信仰を表していきましょう。


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