阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年1月27日
祈りの力
使徒12章1-5節

 1月も第4週目の日曜日を迎えました。寒い日が続きインフルエンザも流行っています。その中でも主の日に礼拝をささげられる特権を感謝します。礼拝は私達の信仰と生活の中心になります。
 今日も霊と真をもって礼拝し、主の御顔を拝したいと願います。
 さて、私達は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16−18)の御言葉をいただいて進んでいます。
この御言葉はクリスチャンの証しとなります。
 使徒7章には、ステファノの殉教の記事が記されています。ステファノは恵みと力に満ちた信仰の持ち主でした。エルサレム教会の7人の執事として選ばれ、奉仕していた人です。ステファノは知恵と聖霊によって語る人でしたので、他の地域から来たユダヤ人が議論しても歯が立たなかったとあります。そこで妬んだ人々が、ステファノが神を冒涜したと偽証して、最高議会に引き立ててしまいました。ステファノはアブラハムから始めて彼らの間違いと迫害を述べて、更に激しい怒りをかいました。ステファノは、偽証と不正により、殉教したのですが、この時から教会に大迫害が起こりました。教会には使徒たち以外は残れず、信徒たちは、ユダヤやサマリアに散らされて行きました。ところが散らされて行った人々は行く先々で福音を伝えて歩きました。
 ヘロデ王は、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺しました。このヘロデは、主イエスが生まれた時のヘロデ大王の孫にあたる人で、ヘロデ・アグリッパという名でした。ヤコブの殉教をユダヤ人が喜んだので、ペトロを捕らえて同じように殉教させようと企んだのです。
 過越の祭りの後に処刑しようと計画して、牢に入れて、厳しく監視させました。
教会ではペトロために何ができたでしょうか。牢屋に押し寄せて奪還することなどとうていできません。だれか権力のある人に釈放を頼むこともできません。救出のための手立てなどなく、ただ処刑を待つだけのように考えられました。
 しかし、大きな力があるのです。それは、「教会では彼のために熱心な祈りがささげられて」(使徒12:5)いたのです。
教会は迫害されていたので、信徒たちは家の教会に集まっていました。そこでペトロのために懸命に、たゆみなく、熱心に祈っていたのです。途絶える事のない祈りです。
エルサレム教会の信徒たちは、マルコと呼ばれるヨハネの母の家に集まっていました。この家は、最後の晩餐が行われた家であると言われています。また、ペンテコステの日に聖霊が降ったのもこの家であると言われています。大変用いられた家でした。人が大勢集まれる、かなり大きな、裕福な家であったようです。マルコはいろいろとエピソードのある人ですが、後にマルコによる福音書を著します。
ペトロは、いよいよ明日は引き出されようとしていました。その夜、不思議な事が起こりました。ペトロは二本の鎖に繋がれ、厳重な監視の中にあっても眠っていました。主の天使が遣わされ、光が牢の中を照らしました。暗闇から光へと導かれるのです。天使は、ペトロのわき腹をつついて起こしました。
鎖が自然にはずれました。天使はペトロに帯を締め、履物を履いて、上着を着てついてくるようにと指示しました。
ペトロは幻をみているようにしか思えなかったのですが、第一、第二の衛兵所を通り過ぎて、町に通じる門のところまで来ると、門が自然に開いたので、そこを出て、通りを進んでいくと、天使は離れていきました。
ペトロは我にかえって、「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」(使徒12:11)と悟りました。
そして、マルコの母の家に行ったのです。大勢の人が集まって祈っていました。
門の戸を叩くとロデ、バラという意味の名前の女中さんが出てきましたが、ペトロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けようともしないで家に駆け込み、ペトロが来ていると告げました。
 その時の人々の反応がおかしいのです。ひどい事を言いました。「あなたは気が変になっているのだ。」ペトロを心配するあまり、気が動転していて、ペトロが来たように思い込んだのだろう。ロデは、絶対に本当だと言い張りました。人々は、ペトロを守る天使だろうとかいろいろと言いました。
 ペトロは、気が気ではありません。せっかく天使が助け出してくれたのに、家の教会の門は開けてもらえません。ペトロは門をたたき続けました。祈っていた人々は、門のところに本当にペトロがいたので非常に驚きました。
ペトロは事の次第を説明し、ヤコブと兄弟たちに伝えるようにと言い残して、他のところへ行きました。
 ペトロは救われました。祈りによるのです。しかし、祈った人々は本当に信じて祈ったのでしょうか。祈りの課題が深刻であればあるほど信仰が試されます。
 聖書は、絶えず祈りなさいと、教えています。これは一日中意識して祈るということではありません。心の中心に主イエスを常にお迎えして、いつもキリストを思い、会話しながら生活するという事です。主イエスを忘れてしまうなら、祈る事すらできず、魂が眠っている事になります。
祈りの力とは、祈ることによって、全能の神が生きておられることを体験することです。
 神は、私達の信仰が弱いから祈りに答えて下さらない事はありません。
祈りは届くのです。「苦難の日に主があなたに答え ヤコブの神の御名があなたを高く上げ 聖所から助けを遣わし シオンからあなたを支えてくださるように。」(詩編20:1,2)また、「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50:15口語訳)と約束されているのです。
私達の主は、助けて下さる神です。どのように弱くても、主の十字架の前にひれ伏し、助けを求める時に、必ず神の方法で助けて下さるのです。
「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き 苦難から常に救ってくださった。」(詩編34:7)、「主は助けを求める人の叫びを聞き 苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる」(詩編34:19、19)。
 私たちは、自らの心を常に探り、十字架の許に悔い改める時、助けはいつもあるのです。
主イエスを常に心の中心にお迎えし、いつも会話を続けるなら、祈りに導いてくださいます。必要なのは、私達が強いとか弱いとかという条件ではなく、神との正しい関係にあるかどうかだけなのです。
そして、心を合わせて祈るという素晴らしさを体験できます。ペトロ救出という不可能を、兄弟姉妹と心をあわせてたゆまず祈り続けたこと。これは本当に素晴らしい事なのです。
教会としても、また個人としても祈りが必要です。私たちの神は全能の神であり、私達を愛し、助けて下さる方です。
心を合わせていつも祈りましょう。神は聞いてくださいます。人にはできなくても神にはできるのです。
主は、私達が祈る時、喜んで耳を傾けて下さいます。
「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求めるものについては聖霊を与えて下さる」(ルカ11:10−13)
聖霊を豊かに下さり、良い物で満たし、全能の神を知るために、私達は更に祈りに導かれていくことを願い、求めて参りましょう。
祈りは不思議な神によって完全な方法で聞かれるのです。


 ページのトップへ
  
2019年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ