阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年2月3日
光の中を
ヨハネ8章12節

 ヨハネ8章3節からは、姦淫の場で捕らえられた婦人の出来事が記されています。
 主イエスが朝早く神殿に行かれると、大勢の人が集まって来たので、座って教えておられました。すると、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦淫の場で捕らえられた女性を連れて来て、人々の真ん中に立たせました。これは、律法学者たちの、主イエスを試して窮地に追い込もうという企みでした。
 律法によればこのような罪を犯した者は、石打ちの刑に処されることになっていました。主イエスがこの婦人を赦せと言われれば、モーセの律法を軽んじ、神に対して不敬虔であると裁くことができます。また、赦さないと言われれば、いつも説いている愛はどうなっているのだという口実になるのです。
 主イエスは何もお答えにならず、屈みこまれて地面に指で何か書いておられました。律法学者たちがしつこく聞くので、主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と立ち上がられてお答えになりました。
そして、また屈みこまれて同じように地面に何か書き続けられました。
この御言葉を聞いて、年長者から立ち去って行き、最後にはだれもいなくなってしまいました。
主イエスは立ち上がられて、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(ヨハネ8:10)とお聞きになりました。女性は、「主よ、だれも」と答えると、主イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と言ってくださいました。
この出来事がある前、主イエスは人々を教えておられたのです。ですから再び教え始められて、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われました。
 姦淫の場で捕らえられた女性は、確かに罪を犯しました。聖書は、姦淫は偶像礼拝と等しいとしています。汚れた重い罪と考える事ができます。偶像礼拝とは、真の神以外を神とするということです。
この婦人は自分の罪が分かっていたのでしょうか。たぶんわかっていたと思います。自分は大変な罪を犯しているのだという事を知っていたでしょう。しかし、その罪からどのようにして逃れることができるのかは分からなかったのです。このままでは破滅してしまう事も分かっていたはずです。しかも、大勢の人の前に引き出されて、罪が表ざたになってしまったのです。石打ちにされて当然と、覚悟したかもしれません。
この女性は、捕らえられる前も、今も、生きるのも死ぬのも暗闇の中であると思えるのです。
「罪の支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)罪の報酬としての死を受け、暗闇の中にあって、やがて滅びなければならないような生き方でした。「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命なのです」(ローマ6:23後半)主イエスに希望があります。
 この女性は、主イエスの許に引き出されて、光の中に招き入れられました。主イエスによって完全な赦しを宣言されたのです。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。
 素晴らしい救いと赦しの宣言です。この女性は、主イエスに対して謝ったわけではありません。何も語っていません。
しかし、主はすべてを見通されて赦しを与えて下さいました。
許された者の責任を考えてみましょう。それは、赦されたら、「もう罪を犯してはならない」という御言葉を、敬虔な思いをもって受け止め、深く考え祈りながら生きることです。
 主イエスの赦しを軽んじてはなりません。主は全ての人の罪のために十字架に架かり、血潮を流されて、贖いを完了されました。
その十字架を軽んじてはなりません。罪赦されたことの感激と喜びをいつも心の中に篤く持ち、感謝と賛美の声をあげていく事が罪赦され、救われた者の証しなのです。
この婦人は、暗闇の人生から、罪赦されて光の中へと導き出されました。どうしてまた暗闇に戻ることがあるでしょうか。光の中を歩む責任があります。
私たちは、主イエスを救い主として信じ、心に受け入れる事ができました。その時から罪が赦され、光の子としての生活が始まったのです。  エフェソの手紙の中に「あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光になっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5:8)という御言葉があります。
私達も、主イエスを受け入れる前は暗闇の中にいたことを覚えているでしょうか。暗闇は、真の目標が定まりません。人としてこの世で良い生活ができて、良い事が多ければ幸いだというような思いであったと思います。自分の人生、自分の生活、自分の満足といった自分の思いが満たされることを望んだかもしれません。
貪欲さを持ちながらの生き方だったかもしれません。しかし、不品行な者、貪欲な者は、つまり偶像礼拝者であって、「キリストと神の国を継ぐことはできません。このことをよくわきまえておきなさい」(エフェソ5:5)とあります。
主イエスを救い主として心にお迎えした時、私たちの心には聖霊がお住まい下さいました。この聖霊は文字通り聖い御霊です。罪とは全く関係のない、かけはなれた聖い神の霊なのです。
私たちは主イエスの十字架の血により、清められ、新しくされ、御霊をいただいたのです。
もう闇の中は歩みません。主イエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われました。
主イエスは、ここで「わたしに従う者は」と言われました。主イエスを信じるという事は、主イエスに従う事であると気が付くのです。
主イエスを信じてからも罪との戦いがあり、また、この世のさまざまな誘惑があり、試練もあります。闇の中を通るようなこともあるかもしれません。しかし、主イエスは「暗闇の中を歩かない」と断言されるのです。暗闇と思っても、世の光である主が共におられて私たちを照らし、手を取り、あるいは背負って歩いてくださるのです。私たちが主イエスからいただいているのは、命の光です。
心が弱る時、主イエスを仰ぎましょう。罪の誘惑があるような時、主イエスの十字架を仰ぎ見ましょう。私たちに聖霊が与えられている事を忘れてはなりません。聖霊はわたしたちを生かし、力を下さり、目を開かせて下さるのです。主イエスの光に満ち溢れる自分を見出すことが出来るのでしょう。
主イエスは人々を神殿の宝物殿の近くで教えておられたとヨハネ8章20節には記されています。宝物殿には献金箱が置かれていて、多くの人々が集まる所でした。大きな燭台が置かれていて、夕方から火がともされ、その明かりはエルサレム中を照らすと言われるほど明るかったそうです。そこで主イエスは、「わたしは世の光である」と言われたのです。宝物殿の明かりよりもはるかに明るい天の光で人々を照らし、救いを与えると宣言なさいました。主イエスが、「わたしは、何々である」という言い方をされているのは、ヨハネによる福音書だけです。これは、主イエスのこれ以上ないほどの権威を表す表現で、「わたしだけが真の光であり、この世を照らす永遠の救いの光である」ということを宣言しておられるのです。宝物殿の光もやがて消え去ります。毎日明かりを取り換えなければなりません。
しかし、主イエスは真の命の光です。罪を明らかにされ、悔い改める者を赦し、永遠の命に導いてくださいます。
わたしたちができる事は、常に光の子として、その御言葉を喜び、御言葉によって生きる事です。
暗闇から光へと導かれた喜びを語り続ける事です。主イエスの栄光を表す生き方を追い求める事ではないでしょうか。


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