阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年2月10日
「慰め主」
Uコリント1章3-4節

 主イエス様は、私たちのすばらしい慰め主です。
昨日は、今年最初の三浦綾子読書会がありました。課題図書は「青い棘」という著作です。
人は、だれにでも、心に棘(罪)があり、その罪の結果が戦争であり、悲しみと破滅をもたらすという示唆に富んだ小説です。しかし、真の神であるキリストを求めていく時に、必ず救いと光が与えられることが示されています。
人はさまざまな悲しみを持つものです。愛する人との別れや、希望を絶たれた時の悲しみは、癒されようがないと思えるほどの痛みであると思います。また、死について考え、その解決を求める人々もたくさんいるのです。
さて、コリント教会は、パウロが伝道し、設立した教会です。後に教会にさまざまな問題が起きて、パウロが手紙で教え指導しました。その手紙がコリントの信徒への手紙、T、Uです。
パウロは、コリント第二の手紙の挨拶のあとで、神は慰めを豊かに下さる神であると記しました。
この時、パウロは何を思っていたのでしょうか。すべてが順調だったのでしょうか。そうではなかったようです。8節以下で、パウロはアジア州で受けた苦難について語っています。それは、非常に激しいものでした。パウロは耐えられないほどの圧迫で、生きる望みさえ失ったと告白しているのです。どれほど激しい迫害であったことかと思えるのです。
常に主を信じ、主に従い、前進するパウロがこのような悲痛な声をあげています。
しかし、パウロは絶望していたわけではありませんでした。
死の宣告を受けたような思いの中、「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(Uコリント1:9)とあるのです。
絶えられないほどの苦痛の中、死をも覚悟しなければならないような中で、パウロは光を見上げていました。
それは、自分が信じている神がどのようなお方かを考えたのです。無から有を生み出し、死者を復活させて下さるお方であると改めて信じたのです。全知全能の神、そしてわたしたちの神は慰めの神です。
 主イエスはある時、ナインという町へ行かれました。聖書の中でルカ7章にだけでてくる町で、ナザレから10キロ位離れたところにありました。その時には、群衆や弟子たちも一緒であったとあります。
その町の門に近づいた時、葬列と出会いました。ある母親の一人息子が死んで、出棺をする時でした。その母親はやもめであったとあります。
ですからこの婦人は夫に死別し、また一人しかいない息子にも死別してしまい、悲しみの極みにありました。母親にとって一人息子の死は自分の死でもあるように思え、生きる希望も目的もなくなってしまったのです。
主イエスはこの母親をご覧になり、憐れに思われました。この憐れに思ったという言葉は、「はらわたが痛くなるほどの悲しみ」という意味があります。単に同情されただけではなく、心が張り裂けそうになるほど、また内臓が痛くなるほどの憐みを覚えられたのです。
そして、「もう泣かなくともよい」(ルカ7:13)と言われたのです。
主イエスは棺に手を置かれました。そして、「若者よ、起きなさい」と言われると、この若者は起き上がったのです。主イエスはこの若者を母親にお返しになりました。
人々は皆、敬虔な思いになり、神を賛美したのです。「神はその民を心にかけてくださった」(ルカ7:16)と賛美しました。
 私たちは、主イエスはこのようなお方であることを覚えたいのです。、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と御言葉にありますが、主イエスは泣く人と共に泣いてくださるお方であり、苦しむ人と共にいて、共に苦しみ、慰めてくださるお方なのです。
 パウロは、どのような苦しみの中にあっても神を見失う事はありませんでした。迫害の中から救われた時、このような大きな死の危険の中から救い出してくださった方は、今も、これからも救って下さるに違いないと神に望みを置くことができたのです。すばらしい確信です。
神は、過去、現在、将来にわたって救い出し、命に満たして下さる神なのです。「わたしたちは神に希望をかけています」
(Tコリント1:10)と、苦難の中から信仰の告白をすることができました。
さて、私たちの神は、「父なる神」「慈愛に満ちた神」「慰めを豊かに下さる神」(Tコリント1:3)です。
先日の読書会の課題図書、青い棘には、「なぎさ」という婦人が登場します。非常にはっきりした性格で、時には自分勝手と思えるところもあるのですが、生活力もある人でした。夫の不実がわかり、夫と別居し、実家に戻って、これからの方向性を探っていました。
なぎさは、自分の幼い娘が幼稚園で、「天の父なる神様」と祈る事を教えられていて、家でも祈る姿を見ていました。寝る前にいつも「パパとママが仲良くできるように助けてください」と祈り、これで安心して眠れるというのを聞いていました。
なぎさは、「この子には天のお父様がいる。」という事に気が付き、自分も求道していこうと決心するのです。なぎさの心の中に、きっと天のお父様が導いて下さるという思いが芽生えました。
神を求めて行こうと決心した時に、まだ何も解決していないのに、必ずこの神が導いてくださるという、希望と慰めが豊かに与えられたのです。
主イエスは、私たちの導き手です。私たちは、パウロのように命にかかわるような迫害の経験はありません。しかし、困難や苦しみ、いつ解決するのか分からないような問題に苦しむことも多いのです。
御言葉は、「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」(Uコリント1:4)のです。ありとあらゆる苦難の中にあっても、慰めの手があるのです。主イエスは、あのやもめに言われたように、「もう泣かなくともよい」(ルカ7:13)と語って下さいます。
そして、何事も委ねる事を教えて下さいます。神にお任せできることは何よりも素晴らしい事です。私たちには先の事はどうなるかわかりません。先ほどのなぎさという婦人も、これからどうなるのかわかりません。しかし、全能の神ご自身にすべてを委ねるなら、慈愛に満ちた神は、最善に導いてくださいます。
また、さらに御言葉は、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(Uコリント1:4)と続いています。
神の慰めを経験した人は、苦難の中にある人々を慰めることが出来るのです。その力はどこからくるのでしょうか。
私達には神の霊、聖なる御霊がお住まい下さっています。この方は、慰め主です。ヨハネ14章25節には、「弁護者」として紹介されていますが、「パラクレイトス」、即ち慰め主、助け主です。
聖い御霊が私たちの内におられて、常に助け、慰め、私たちを執り成しておられるのです。
心はいつも慰めに満ち溢れます。そして、私たちの周囲には慰めと助けが必要な人が大勢います。一時的な慰めではなく、永遠の救いが必要なのです。
私たちは、主イエス・キリストこそ真の救い主であり、慰め主であることを語り続けたいのです。また、生活の中で証しをしていくときに、丁度なぎさという婦人がわが子の祈る姿に教えられ、求道する心が芽生えたように、人の心の中に変化と奇跡が起きるのです。
これからも慰め主であるキリストご自身に希望をかけて行きたいと思います。自分の力に希望を置くなら、また、世の中の何かに希望を置くなら、それは失望に終わるかもしれません。
しかし、私たちの主、真の神、慰めの神に希望をおくなら、その希望は失望に終わることはありません。
命と力が沸き上がるのです。私たちの涙は拭われ、感謝と喜びと力に満ち溢れる事が出来るのです。


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