阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年2月17日
「恵みの主」
テトスへの手紙2章11-15節

 私たちが信じている主イエスはどのようなお方でしょうか。愛と憐みと恵みに満ちておられる素晴らしいお方です。
私たちに常に良い物を備えて楽しませて下さる方です。また、時には必要な訓練をお与えになって、信仰が強められ、聖なる者として生きるようにと教えて下さいます。
テトスへの手紙は、使徒パウロが晩年、信頼していた弟子テトスに宛てた手紙です。テトスは、コリント第二の手紙にその名前がしばしば出てきます。
テトスは、コリントで、エルサレム教会への募金を行い、パウロの手紙をコリントに届けるということもしました。
テトスはクレタ島に派遣されていました。それは、残っている仕事を整理することと、町ごとに長老を立てる事でした。パウロの記した残っている仕事とは、具体的には分かりませんが、町ごとに長老を立てるという事から、教会を建て上げ、成長させていくという事と思われます。
クレタ島については、あまり良い評価が与えられていませんでした。「いつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢」(テトス1:13)とあり、しかも、この言葉は当たっていますと続いているのです。
テトスには、人としての品性が整っていない中での宣教と、教会を建て上げていくという責任がありました。
道のない所、希望のない所での宣教のように思えます。素直で心の正しい人々に御言葉を語るのなら、救いの御業もすぐに起きるのではないかと思うのです。しかし、人を惑す者たちや、不従順な反対者も大勢いたのです。
そのような中で、御言葉ははっきりと神の恵みを宣言します。
「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れました。」
(テトス2:11)。
クレタ島の人々だけではなく、人は罪を持っています。
ある時、ファリサイ派と、律法学者たちが主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をするのを見て、主イエスに「なぜあなたの弟子たちは汚れた手で食事をするのか」と質問しました。彼らは市場から帰った時は身を清め、また、念入りに手を洗ってからでないと食事をしませんでした。そのほかにも、食器類や寝具などを洗う事などを厳格に守っていました。彼らはそれが清めでであると信じていたのです。
しかし、主イエスは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(ルカ7:14)と、教えられました。
それは、外から人の体の中に入るものは、人を汚すことができない。それは、人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして、外に出されるだけと言われたのです。
そして、「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:20−23)と示して下さいました。いくら手を洗っても、身を洗っても、食器や器具を洗っても、罪から清められないことを教えられたのです。
クレタ島の人々だけではなく、誰にでも罪があります。罪によって神と断絶し、滅びに向かう人々を救うために、救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
人が罪から救われる方法は、神の恵みによるしかありません。もともと罪人であって、救われる方法も資格もなかった者を、神は恵みによって救って下さいました。神の独り子イエス・キリストをこの世にお遣わし下さり、罪のない方を身代わりとして十字架に架けられたのです。
 神の恵みとは、滅びの代わりに命を与え、限りない祝福を与え続けて下さるという事なのです。それは、神の愛によるものです。
その救いは、「すべての人々」に与えられるものなのです。今は恵みの時、救いの日なのです。だれでも主イエスによって救いを頂ける恵みの時代です。
神が人を創造されたのは、「神の栄光を語り告げる」ためです。
主イエスの十字架によって罪を赦していただき、永遠の命に生かされている者の生き方が教えられているのです。
それは、キリストに属する者となったという思いを持ち続ける事です。
救われた者は、天に国籍を持つ者であって、天から派遣されて今があるという自覚です。
 アッセンブリーでは、青年会をCAと言います。なんでCAなのかと思っておられる方もあるのではないでしょうか。CHRIST AMBASSADORの略でCAです。
キリストの大使としてこの世で用いられるようにという意味です。
クリスチャンであるなら全員がキリストの大使であり、キリスト者すなわちキリストとして生きていきます。
イエス・キリストに出会ってその栄光を表す者に変えられて行くのです。
今、あまり聖歌を歌わなくなりましたが、素晴らしい賛歌がたくさんあります。作詞家のファニー・クロスビーという婦人は大変有名な人です。
聖歌396の「十字架のかげに」もこの人の作詞で、そのほか23曲が聖歌の中にあります。
ファニー・クロスビーは、1820年にニューヨークで生まれましたが、生後間もなく失明してしまいました。父親を早くに亡くして、クリスチャンの母親と祖母に育てられました。
大変聡明な人で、盲学校で学んでいる時も、すべてに秀でていました。
詩作が大変得意で、たくさんの詩を時には即興で作ることもありました。やがて、盲学校の教師とし働き始めたのです。
ある時、キリスト教の集会に出席した時に、自分になかったものに気づきました。それは、イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れていなかったことでした。詩をたくさん作り、ある程度の知名度もあったのですが、なにが足りなかったのかを知りました。イエス・キリストを受け入れたのです。
そして、その時から神を褒めたたる詩を作り始めたのです。聖歌には24曲が収められていますが、どの歌も信仰と感謝と賛美に満ち溢れています。賛美する時、誰もが恵みに満ち溢れ、信仰の勇気と確信を与えられます。6000曲の詩を作ったと言われています。
 ファニー・クロスビーに、「あなたは目が見えなくて本当にお気の毒です」と言った人がいました。するとファニーは、「もし仮に、次に生まれるとしても、盲目で生まれたいです。なぜなら、一番最初に見るお顔がイエス・キリストであったら素晴らしいからです」と答えました。
イエス・キリストに出会ってから、ファニーの心は喜びと賛美に満ち溢れていたからです。
 ファニーも素晴らしいキリストの大使として用いられたのです。
テトスへの手紙2章12節以下には、キリストの栄光を表すために生きる事が勧められているのです。
 与えられた恵みにより、またその救いの絶大な価値を見失ってはならないのです。救いはこの世の何物にも比べられません。
この世のものは過ぎ去ります。しかし神の言葉とイエス・キリストは永遠の変わる事はありません。
 私たちは主の恵みを喜び、感謝し、賛美し、キリストの救いを語り継いでいきたいのです。それが神の喜ばれる敬虔な生活に繋がるのです。
キリストの十字架の目的は、あらゆる不法、罪から贖い、神の民としてふさわしく生きることであると教えています。それは、神の愛と恵みによって導かれる生活です。
テトスは権威をもってこれらのことを教えるようにと励まされました。
 神の言葉には権威があります。神に遣わされた大使として、神の言葉を語るなら、神の業が現されます。
神の権威が私たちに与えられ、神の言葉を語ることが出来るという事こそ、すばらしい恵みであることを覚えたいと思います。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Uコリント5:21)


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