阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年2月24日
「あなたへの愛」
コロサイ3章12-16節

 主イエスによって救われ、罪から解放された事を心から感謝します。かつては罪の中にあって、実を結ばない空しい生活を送っていた者が、キリストによって造りかえられ、キリストと共に歩む者となりました。
コロサイ書は、そのような者を「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから・・・」(コロサイ3:12)と記しています。
神の選びの基準はいったいどこにあるのでしょうか。人間の世界であれば、賢い者や、力のある者、役に立つ者、といった優秀な者が選ばれるのではないかと思います。ところが、神の選びはそのような基準ではありません。無力な者や、無学な者、無に等しい者、身分の卑しい者や、見下げられている者を選ばれたとあります。(参考 Tコリント1:27、28)考えてみると、この世のなかでどれほどのものをもっていたとしても、神の前には無力、無に等しいものでしかありません。
世の中にあっては権力や富を持ち、身分があっても、神の前には空しいものでしかないのです。それらは、悔い改めてキリストのために用いる時に初めて役に立つのです。
神に選ばれ、聖なる者とされたとあって、なんとすばらしい事かと思います。キリストの十字架の血潮によって贖われ、罪から解放されたことを喜びとします。
そして、聖なる者とは、「聖別」された者という意味なのです。
聖なる者というと、聖人というイメージがあるのですが、そうではなく、神の為に選び分かたれた人々という意味になります。Tコリントの挨拶にも、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」(Tコリント1:2)とあります。
それは、イエス・キリストを救い主と信じ、心に受け入れて、キリストに呼ばれた者であって、キリストのためにこの世から分かたれた者であるという事なのです。
聖なる者とされた時に、知ることができるのは、「愛されている者」だという事です。人には、心があります。物質的にどのように豊かであっても、愛されていないと感じるなら、幸せにはなれません。
心が満たされないのです。愛はお金で買う事はできません。愛されたいからと言って大金を積んでも愛を買うことはできません。
人にとって大切なものは、お金では買えないのです。空気は生きるために不可欠ですが、生きるために必要な大量の空気は買えません。
酸欠になると、数分で命は失われてしまいます。生きるために必要な空気を与えて下さるのは天地万物をお造りになった父なる神の愛の表れと考えられるのです。
神様はどのようなお方でしょうか。主イエスは良いお父さまであると教えて下さいました。主イエスは、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」(ルカ11:11−13)と教えてくださいました。
罪人であっても自分の子供には良い物を与えようとする。ましてや天の父は求める者に聖霊を下さるのです。
聖別され、愛されている者は、造り主の姿に倣う(ならう)新しい人を身に着ける事であり、日々新たにされ続けることであるとも教えられています。(コロサイ3:10)
愛されている者は、「憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:12−13)と続けられています。これは、人が人と共に平和に生きていくための秘訣なのです。
お互いに責め合い、赦しがない所には祝福も恵みもありません。それは、家庭でも、教会でも地域でも社会でも同じです。慈しみの心、親切な気持ち、謙遜な思い、どのような事が起こっても穏やかな心でそれに耐え、辛抱強く待ち望む心、これらを身にまといなさいとあるのです。
互いに赦し合うのは、主イエスが私たち一人一人を十字架によって許して下さったからです。
主イエスはたとえ話で真理を教えてくださいます。ある時主イエスに弟子のペトロがだれかが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか、7回までですか」と聞きました。主イエスは、「7回どころか7回を70倍するまで赦しなさい」と言われたのです。7回の70倍とは、限りなく赦せということです。そして、仲間を赦さない僕の例えを話されました。王様が家来に貸した金の清算を始めました。一万タラントン借りていた家来が呼ばれました。一万タラントンは6千万デナリです。一日の報酬が1デナリといわれているので、6千万日分の報酬に価します。これを年に直すと約164千年になるのです。途方もない数字なのです。当然返済などできるはずがありません。王様は、自分も妻も子も、持ち物も全部売って返済するようにと言いました。家来は、ひれ伏して「どうか待って下さい。きっと全部お返しします」と頼みました。王様は憐れに思って借金を帳消しにしてくれたのです。払いきれない、逃れられない借財から解放されたとしたら、その喜びはどのようなものでしょうか。うれしさに飛び跳ねてしまうのではないでしょうか。ところが、この人が外に出ると、100デナリオンを貸している僕仲間に出会いました。100デナリオンは、100日分の報酬です。100万円位と考えてもよいでしょう。天文学的数字の借財を赦してもらった人は、自分から100デナリオンを借りている人を赦すことができませんでした。
首を絞めて「借金を返せ」と迫ったのです。仲間はひれ伏して、「必ず返すから待ってくれ」としきりに頼みました。しかし承知せず、仲間を牢に入れてしまったのです。他の仲間はそれを見て心を痛めて、王様にこの事を知らせました。王様は、「不届きな家来だ。お前が頼んだから借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、借金をすべて返済するまで牢屋に入れてしまいました。そして、主イエスは、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(マタイ18:35)と教えられたのです。また、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6:14、15)と教えておられるのです。
神の愛を受け取り、信じる時に、心の中には神の平安が宿ります。キリストの平安です。この平安は世のものとは違います。世のものは、外側から来るものです。そして、すぐになくなるようなものなのです。しかし、主イエスの平安は世のものとは違います。心の中に与えられるもので、決して失われるものではありません。キリストの平安は信じる者の心を支配してくれるのです。
私たちは、この平安(平和)にあずかるようにと召されて一つとされているのです。さらに、いつも感謝していなさいと教えています。
これらの事を考える時、天の父の愛が注がれている事に気づきます。
天の父は求める者に聖霊を下さるのです。聖霊は御言葉を思い起こさせ、真理に目を開いてくださるお方です。平安も愛も憐みも、聖霊の実で、私たちの内にその実を結ばせて下さいます。
私たちは自分の内に父なる神の愛が注がれている事、愛されている事を受け入れる事からすべてが始まるのです。神の愛が分からなくては人を愛する事も受け入れる事も、赦すこともできません。
「愛を身に着けなさい」とあります。これは、愛を帯にして身を包むということです。愛の帯は一切を調和させて人を結びつけるのです。
私たちが、神の愛を信じ、愛されている事を喜びとするなら、愛されている者にふさわしく生活することが出来ます。その生活そのものがキリストを現わすものであり、かつて主を信じる者たちは「ハギオイ」と呼ばれました。それは、即ち聖なる人々、「神の為に選び分かたれた人々」という意味です。クリスチャンの事です。神の愛を覚え、ハギオイとしての証しを生活の中であらわし、神の栄光を褒め称えましょう。


 ページのトップへ
  
2019年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ