阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年3月3日
「イエスのお言葉」
ルカ5章1-11節

 主イエスがゲネサレト湖畔におられると、群衆が神の言葉を聞こうとやって来ました。神のお言葉、即ち主イエスが何を語って下さるのか、期待して集まってきました。人々は主イエスのお言葉に救いと慰めがあることを知っていたのです。
漁師たちが舟から上がって網を洗っていたので、主イエスは舟の持ち主であるシモンに、舟を少し漕ぎ出すように頼みました。シモンは、後のペトロです。
シモンは主イエスの依頼に応じて舟をこぎ出したのです。主イエスは舟の中から人々をお教えになりました。舟をこぎ出したシモンは、主イエスに一番近いところで御言葉を聞いたことでしょう。
お話が終わると、主イエスは、シモンに「沖に漕ぎ出して、網を降ろし漁をしなさい」と言われました。
シモンたちは、ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)の漁師ですから、漁の専門家です。そもそも主イエスが舟をこぎ出すようにと言われた時、網を洗って、次回の漁に備えていたのです。一晩中漁をしても何も獲ることができませんでした。疲れたし、網の手入れを早く終えて、家で体を休めたいと思っていたことでしょう。そこへ主イエスが来られて、舟を漕ぎ出して欲しいと頼まれました。
主イエスに舟を漕ぎ出すよう頼まれて、やがてお話が終わったので、家に帰れるかと思ったら、今度は沖へ漕ぎ出して漁をするようにと言われたので、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(ルカ5:5)。と答えました。
「漁師である私たちが一晩中漁をしても何も獲れなかったのです。ですから、今また同じようにしても結果は出ないと思います。しかも、漁は夜間するもので、今は朝ではありませんか」という思いがありました。
シモンは、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と続けました。イエス様がそう言われるなら、沖へ漕ぎ出して網を降ろしてみましょうと答え、実際に言われる通りにしました。
信じられない事が起こりました。非常に多くの魚が獲れて、網が破れそうになったので、もう一艘の舟に助けに来るように合図をしたのです。
獲れた魚の重みで二艘の舟は沈みそうになったほどでした。
私たちは主イエスのお言葉を聞いた時に、本当に信じ、絶対的なお言葉として受け入れているかどうかを、この出来事を通して考えさせられるところであると思います。
シモンは、主イエスのお言葉に従った時に奇跡を体験したのです。
そして、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)とひれ伏して言いました。
主イエスとその御言葉にふれたシモンは、自分のあの罪とか、この罪とかというより、自分の存在が罪深い者にすぎないことがわかりました。聖なる主が罪人である自分と同じところにいられるはずがないと思いました。シモンも仲間も、どうしたらよいのか分からない位驚いたのです。この時、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも一緒にいました。
主イエスは、「恐れる事はない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5:10)と言われたのです。
人間を「とる」という言葉は、「生かすために捕らえる」、「危険から命を救う」という意味があります。人が真の救いにあずかるための働きをするようになるのだという意味なのです。
この時、彼らは舟を陸に上げて、すべてを捨てて主に従って行きました。
このところには、シモンの兄弟アンデレの名前はでていませんが、別の福音書では、シモン、アンデレ、ヤコブとヨセフが召されていることが記されています。
シモンは、主イエスの御言葉に従順でした。経験を積んだ漁師としての自分の判断を押し通しませんでした。主のお話を聞いた時、この方の真の光を受け入れたのです。
人は我を持っています。今自分がしている事の手を留められることを厭う傾向があるのです。今網を洗っている。今日は不漁だったから網を手入れして、今晩に備えなければならないなどと考え、不漁が続けば生活に困るなどで頭がいっぱいになるのです。そこへ横から手を留めさせられたらいやな思いになり、断ってしまうかもしれません。
しかし、シモンは、主の依頼を受けました。網を洗う手を止めて、主イエスを舟に乗せて漕ぎ出しました。
主イエスをお乗せして同じところにいたのです。主の前に出る事が出来ました。そこで、主イエスの口から話される御言葉を聞きました。
舟の中ですから本当に身近に聞くことが出来ました。ベタニヤのマリアは、主イエスが家に来られた時に足元に座り、御言葉に聞き入っていました。それと似ているようなところがあるのです。
そして、本当に大切な事は、御言葉を聞いたらそのように行うという事なのです。
主イエスのお言葉はすばらしいと喜んでも、その通りにすることがないなら、ただ聞くだけであって、知識だけに終わります。
主イエスは、ある時、種を蒔く人の例えでお教えになりました。この教えの時も大勢の人々がそばに集まったのでお話をなさったのです。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」(ルカ8:4−8)とあります。
弟子たちはこのたとえ話の意味が分からなかったので、主イエスに尋ねました。すると、「種は神の言葉」であると言われたのです。
道端に蒔かれたものとは、御言葉を聞いても悟らず、信じることがないので、悪い者が来て、心の中から御言葉が奪われてしまう人たちである。石地の者とは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないのでしばらくは信じても、試練にあうと信仰をなくす人たちである。茨の中の人とは、御言葉を聞くが、人生の思い煩いや快楽に覆い塞がれて、実らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちであると教えて下さいました。
主イエスは私たち一人一人に、御言葉を与えて養い、育んでくださいます。良い土地、素直な正しい心で御言葉を聞きたいのです。
主イエスは私たちの全生涯を祝福で満たしてくださるお方です。真理の御言葉を与え続けておられます。
私たちは、御言葉を聞き、聞いたらその通りにしていく時に、本当の祝福に預かることができるのです。主イエスが生きておられる救い主であることを体験します。
頑なに御言葉を拒絶するなど、とんでもない事です。御言葉は世の中の何物にも代える事はできません。
私たちには良い心はありませんでした。しかし、主イエスの十字架の贖いを受け、罪を赦していただき、神の子とされました。聖い御霊をいただき、御言葉に従う聖霊の喜びを持つことが出来ました。
「清い、正しい心」を、神が下さったのです。御言葉を聞き、忍耐してそれを守る喜びも聖霊によって与えられる実なのです。
シモンたちは、「人間をとる漁師」として召されました。わたしたちもそれぞれが主イエスによって召されています。
人の魂の救いのために用いられるのです。主イエスの御言葉を聞いた時に、手を止めて主イエスに聞くことができる者であるようにと覚えていきましょう。そして、自分の知恵や知識、体験は大切なものですが、まず主イエスのお言葉に従う幼子のような心を持ちたいと思います。
主イエスは、私たちを通してすばらしい御業を現わされるのです。
主イエス様に聞きましょう。そして、御言葉に従い、網を降ろしてみる時、思いもしない大漁の祝福にあずかれることを知りましょう。
御言葉を生活する者であるよう、心から祈り求めていきましょう。


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