阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年3月10日
「あなたへの愛」
ローマ5章1-11節

 主イエスを信じ従う者は、主イエスの御言葉によって生かされ、導かれています。
御言葉はいのちの糧であり、この御言葉がなくては霊的な命を保つことはできません。主イエスへの信仰は御言葉をしっかりと守ることで成長してきます。また、力をいただき、信仰による勝利をもって進むことができるのです。
私たちは、私たちを罪から贖い、救い、永遠の命を下さった主イエスの御言葉を待ち望む者でありたいと思います。
ローマの信徒への手紙5章1節以下には、救われた者の幸いと祝福が記されています。「神との平和」を得て(5:1)、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(5:2)とあります。希望を誇りにしていますという言葉は、希望をもって大いに喜んでいますと、訳すことが出来ます。神との平和とは、言うまでもなく、罪によって断絶していた神との関係が、イエス・キリストの十字架の贖いにより、正しい関係に戻ることが出来たことを言います。
さらに、苦難をも誇りとする(5:3)とありますが、誇りとするというのは、苦難や困難があっても、踊りあがって喜ぼうと勧めているのです。苦難や試練に無駄なものはなく、やがて苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを知るのです。練達とは、何があっても揺らぐことのないキリストの品性に成長し続けていく事です。
苦難のない人生はありません。試練のない人生はありません。主イエスを信じてからは、そのすべてに意味があることを知ることができました。主の訓練は、信仰を成長させてくれるのです。
ある御夫婦は長い間子供に恵まれませんでした。今より少し前の時代ですから、不妊のための治療などは考え付きませんでした。ただひたすら祈り続けたのです。やがて女の子が与えられました。ご夫婦は本当に喜び、神に感謝しました。ところがこの子が3歳になった時、原因の分からない病気になりました。病院で治療を受ける間、両親はひたすら神に癒しを求めて祈りました。父親は、祈りの中に「委ねなさい」という言葉を心に聞きました。クリスチャンは、神に委ねる事を教えられ、またそのように祈ります。しかし、本当に自分で大切に思う事や、願う事を委ねることは難しいのです。この父親は委ねるという事は、すべて神様にお任せすることで、どのような結果になるのか分からないと、心に葛藤を覚えました。大切なわが子がもしも召されるような事になったら諦められないと思ったのです。自分はしっかりとした信仰を持っていると思っていたのですが、神に委ねきれない自分に気が付きました。
本当に大切なものを委ねるという訓練でした。「すべてあなたにお委ねいたします。」と心を明け渡した時、「あなたの人生、あなたの家族、持てるものはすべてわたしのもの、わたしがあなたに委ねたものだということがわかりましたか?」と心に語りかけを受けました。
子供は癒され、改めて人生が変えられました。キリストを中心とした家庭が築きあげられていきました。主イエスの栄光を表す家庭となって行ったのです。この苦難により、練達と希望に招き入れられたのです。
希望は決して失望に終わりません。神を待ち望み、その栄光にあずかるという希望は、失望することはありません。
それは、聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
神はわたしたち一人一人を惜しみなく愛しておられます。神はその独り子を私たちのために世に遣わされました。それは、神の愛の現れです。
主イエスは神の愛を表すためにこの世に来て下さり、世の人々に救いを与えて下さいました。
主イエスは、ある日、カファルナウム近くで徴税人レビをお召しになりました。レビ、後のマタイは、何もかも捨てて主イエスに従いました。罪人として人から受け入れてもらえないレビは、主イエスに召されたことが嬉しくて、イエス様を招いて盛大な宴会を開きました。そこに集ったのは、罪人と呼ばれる人たちでした。
レビは、新しい人生、主イエスに従う人生の始まりを祝いたかったのです。自分が新しく変えられたことが嬉しかったのです。楽しい宴だったことでしょう。ところがそれを苦々しく見ていた人々がいました。
ファリサイ派の人たちでした。彼らは、主イエスの弟子たちに、なぜイエス様は罪人たちと食事を共にするのかと聞いたのです。
すると、主イエスが「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31、32)とお答えになりました。自分は正しい人間だ、救いは必要ないと思っている人のためではなく、罪に捕らわれて苦しむ人々を解放し、救われたいと願う人々の救いのために来られたのだと宣言されたのです。悔い改めて新しい命に生かすために来たと言われました。
私たちが神を知らず、不敬虔で高慢な生き方をしていた時に、キリストは十字架に架かり、命を捨てて神の愛を表して下さいました。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(ローマ5:6)とあるように、不信仰な、不信心な者のために死んでくださったのです。
そして、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)とあるのです。心に罪を持ち、神に敵対するような者のために主イエスは十字架に架かり、その愛を示して下さいました。それは私たち一人一人のためでした。
神の愛を受け入れる時、希望は決して失望に終わりません。
神の愛は、私たちの心に聖霊によって注がれます。頭の中に注がれるのではありません。心に注がれるのです。
いくら愛を示されても、心を閉ざしているなら愛は分かりません。
イエス・キリストの十字架の許で、心を探っていただき、心を明け渡し、悔い改める時、聖霊は愛を注ぎ、心を満たして下さいます。神の愛の実体験です。
神がどのように私たちを愛して下さっているかは、御言葉によって知ることができます。
「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1:3、4)
天地創造以前から、愛して下さるという理由でわたしたちをお召しになり、神の子としてくださいました。
神の子は、天の父を「アッバ、父よ」とお呼びすることができます。幼子が父親を呼ぶ時に使う言葉です。父は、子をいつも見ています。
すぐそばにいてくださいます。手を差し伸べて守って下さいます。
神の愛から私たちを引き離すものはありません。私たちが罪深く弱い者であっても、だれも訴える事はできません。誰も罪に定める事もできません。神の右の座におられる主イエスが執り成しておられるからです。
誰も、どのような存在も私たちを神の愛から引き離すことはできません。
艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、この世のどのようなものも神の愛から引き離すことはできません。
そして、死も命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主、キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
心を開き、神の愛を受け入れましょう。神は私たちをかけがえのない存在として愛して下さいました。その独り子を惜しまず十字架に架けたアガペーの愛です。
神に愛されている者を誰も罪に定めることはできません。もし、神の愛を見失う事があるなら、主イエスの十字架の許に帰ればよいのです。
主の十字架は、私たち一人一人に対するゆるぎない神の愛のあらわれなのです。わたしはあなたを愛しているという神の語りかけを聞き、心を開き、この愛に答えて生きましょう。


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