阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年3月17日
「愛の導き」
ヨハネ1章43-51節

 主イエスは全世界の罪の贖いとして金曜日に十字架に架かり、3日目に甦られました。主イエスを信じる者は、その復活を記念して、日曜日に礼拝を捧げるようになりました。
この事は私たちが主イエスの復活と命にあずかり、罪赦された神の子であることの証しです。また、主イエスが復活され、今生きておられることの証しなのです。
今日も一つとなって主を見上げ礼拝しましょう。
主イエスとの出会いは、人の人生を全く新しいものへと変えます。
ペトロやアンデレ、そのほかの弟子たちが、イエスに導かれた時と場合は様々でした。ペトロやアンデレは主イエスに直接御声をかけていただいて従いました。ベトサイダ出身のフィリポも、主イエスに「わたしに従いなさい」と御声をかけていただいたのです。ナタナエルはフィリポによって主イエスに導かれました。
フィリポは、主イエスに従うようになり、すぐにナタナエルに主イエスの事を話しました。この方こそ、旧約聖書で預言されているメシアであると語りました。「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(ヨハネ1:45)と伝えたのです。フィリポは、主イエスに出会って、心から信じ、従う決心をしていました。心躍るような高揚感がありました。
ところがナタナエルは大変冷たく返事をしました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と答えたのです。
ガリラヤの小さな田舎町から良いものが出るわけがないと確信していました。これは偏見でした。人は確たることもないのに偏見を持ちやすいものです。人の心の中には、何かにつけ他を見下すという思いがあります。ベトサイダ出身のナタナエルは、根拠がないにもかかわらずナザレを下に見たのです。
フィリポは、ナタナエルに余分な説明も釈明もしませんでした。議論もしませんでした。ただ、「来て、見なさい」と言ったのです。一緒に来て、自分の目で見なさいと言いました。
ナタナエルはこの言葉に従いました。主イエスは、ナタナエルがご自分の方に来るのをご覧になって、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(ヨハネ1:47)と言われたのです。
ナタナエルは驚きました。どうしてわたしを知っておられるのですかとお聞きすると、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ1:48)と言われたのです。
イスラエルとは、イサクの息子ヤコブが神からいただいた名前です。
アブラハムに与えられた約束の子イサクは、やがて双子の男子が与えられました。兄はエソウ、弟はヤコブと名付けられて成長しました。二人は、外見も性格も異なる双子でした。エサウは狩りが好きで野を走り回るような人でしたが、ヤコブは穏やかに天幕の周りで過ごしました。
エソウは長男ですから、長子の特権を受け継ぐことが約束されていました。神様からの祝福も家の財産も受け継ぐ権利です。将来全てにかかわる特権でした。
ある日、狩りから帰って来たエサウは、天幕でヤコブがおいしそうな料理をしているのを見て、どうしてもその料理が食べたくて我慢が出来ませんでした。一日中走り回ってお腹が空き、また疲れ切っていました。
ヤコブは赤い豆のスープを炊いていたようです。ヤコブにその料理を食べさせてほしいと頼むと、長子の特権と交換するように提案しました。エサウはたった一杯の、食べてしまえばなくなるものと、永遠の祝福にかかわる自分が受け継ぐべき権利をあっさりと引き換えてしまいました。ヤコブは、父イサクからこの特権の祝福を受け継ぎました。エサウはあわててイサクに祝福を求めましたが、祝福は残っていませんでした。
ヤコブはエサウの怒りから逃れようと、母リベカの兄、ラバンの許に逃げて行き、さまざまな苦労の末、やがて故郷に帰ろうとします。エサウは怒っていて、自分と家族に危害を加えるかもしれないと大変恐れました。多くの贈り物を整えてなだめようと思っていました。
ヤコブは、ヤボクの渡しを家族と共に渡った後、独りで残っていました。その時何者かが来て夜明けまで格闘をしました。勝負がつかず、その人はヤコブの腿(もも)の関節を打ち、去ろうとしましたが、ヤコブは祝福して下さるまでは離しませんと言ったのです。名前を尋ねられて「ヤコブ、(押しのける者)」と答えると、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。」と、イスラエルの名をいただき、その場で祝福を受けました。
ヤコブは押しのける者で、エソウを押しのけ、ラバンの家でも押しのけるようにして財産を増やして生きてきましたが、神との格闘で腿を砕かれ、心も砕かれ、自分の力によるのではなく、神により頼む者に変えられたのです。
イエスがナタナエルは本当のイスラエル人だと言われたのは、神に頼り頼み、神の前に遜る人だと見て下さったのです。かれこそ、真のイスラエルの子孫だと言われたのです。
また、「この人には偽りがない」とも言われました。嘘や偽りのない人であると言われました。
ナタナエルは、主イエスがこのように言われたので、本当に驚いたと思います。主イエスはこのように自分について語って下さった。ただ恐れ入るほかはありませんでした。本当は主イエスが言われるように素晴らしい者ではないのに、主イエスはそのように評価しておられることに感激したのです。
主イエスは、フィリポがナタナエルに語りかける前、ナタナエルがいちじくの木の下にいるのをご覧になっていました。ナタナエルは、いちじくの木の下でいつも何をしていたのでしょうか。
ユダヤでは、いちじくは平和と静けさの象徴であり、また祝福をも表しました。また、葉がしげって日陰をつくるので、いちじくの木の下で祈ったり、神について思いめぐらしたりしたのです。ナタナエルは、いちじくの木の下で祈り、また神を求めていたのです。主イエスがその姿を見て、知っておられたことに驚きました。それは、単に、祈る姿を見ておられただけではなく、神を求め、祈る心の中を見ておられた事に驚いたのです。
罪のない完全無欠な人は誰一人いません。ナタナエルは偽りのない人でしたから、余計に自分の罪を知り、救いを求めていました。
自分の罪深さや、弱さを知っておられる方がおられた。しかもそれを責めたりするのではなく、優しい言葉で受け入れて下さったことに驚きと感激を持って、主イエスに信仰を告白しました。「あなたは神の子、イスラエルの王」すなわち待ち望んだメシアですと告白しました。
主イエスは、さらに「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのも見る」と言われました。
もっと素晴らしい事、偉大な事を見ると言われたのです。これは、先ほどのヤコブが、伯父の許に行くための旅の途中で夢を見、さらに神の祝福の約束をいただいたことを引用しておられます。ヤコブは、神の限りない祝福の約束をいただいたのです。
主に従う者には、主イエスによる天の祝福が約束されています。
主イエスの目は私たち一人一人に注がれています。
私たちが静まって祈る時、主イエスはご覧になり、あなたは真のイスラエルだと語って下さいます。わたしはあなたを見たと言われるのです。「見た」とは、私たちの外見を見たのではなく、心の奥底、だれも知らない悲しみ、苦しみ、悩み、すべて知っているという事なのです。
弱く、罪深く、従い得ないような者であっても、わたしはあなたを愛し、あなたのその弱さのために十字架に架かった。わたしはあなたを愛していると語って下さいます。
 私たちは、主イエスこそ救い主、永遠の神、慰め主、助け主であることを告白し、信じて従い続ける者たちです。
 主イエスは、愛をもって導き続けてくださいます。私たちの人生のすべてにかかわり、最善をなして下さるお方です。ヤコブはイスラエルに変えられました。押しのける者から神の王子になったのです。私たちも主イエスの贖いにより神の子とされたのです。私たちをご覧になる主イエスにどこまでも導かれ、従い続けて参りましょう。


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