阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年3月24日
「正しい道に」詩編23編1-6節

 私たちにとって羊は身近な動物ではないかもしれませんが、イスラエルでは生活の中で珍しいものではありませんでした。
旧約時代から羊は大切な財産であり、少年時代のダビデも羊の番をしていました。
救い主の誕生を天使が最初に告げたのは、野原で一晩中羊の番をする羊飼いたちでした。
 羊は弱い動物なので、自分だけでは生きる事が難しく、すぐに迷い、迷うと命に係わることが人と似ています。ですから、主イエスと人との関係は、羊飼いと羊に例えられています。
ヨハネ10章では、主イエスがご自分を「良い羊飼い」であると紹介されました。そして、その前に、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(ヨハネ10:9)とお教えになりました。
主イエスは救いの門であって、主イエスを通る者は救われるのです。
門を通らないで中に入ろうとする者は、正しい者ではありません。主イエスは、そのような人は「盗人、強盗」だと言われました。羊を盗み、屠(ほふ)ったり滅ぼしてしまうのです。
門には門番がいます。門番は羊飼いが来ると門を開きます。そして、羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いは羊の名前を呼んで連れ出します。
自分の羊を全部連れ出すと、先頭に立って歩き始めるのです。羊は羊飼いについて行きます。
 羊は羊飼いの声を聞き分けます。私たちも羊飼いの声を聞き分けなくてはなりません。
 詩編23編は、だれでも知っている詩編です。ダビデの詩です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(1節)とうたいました。
羊は、どこに青草が茂っているのか、どこにきれいな水が流れているのかわかりません。しかし、羊飼いは知っています。羊に命を与え、それも豊かに与えるために先頭に立って進むのです。
足元が悪い所も通らなければならないでしょう。羊飼いは羊の安全と命を守ります。
 私たちも日々の生活の中で厳しさに喘ぐことがあるかもしれません。これからの見通しが立たなくて苦しむことがあるかもしれません。しかし真の羊飼いが導いてくださる事を忘れてはならないのです。必要は必ず豊かに満たされるのです。渇きは癒されます。
 たしかに羊は青草と水によって養われます。しかし、人はどうでしょうか。青草と水だけではなく、魂の養いがないと生きる事ができません。
主イエスが公の生涯に立たれた時、荒野で試練を体験なさいました。40日間断食をされて空腹になった時、試みる者がやって来て、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と言ったのです。主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)とお答えになりました。申命記の御言葉を引用されたのです。人は食物やこの世の物だけで生きる事が出来ないと教えられたのです。
神の御言葉によって命を得る事ができるのです。なぜなら人は神によって創造されたからです。神を知り、神を信じることなしには本当に生きる事は出来ません。
イザヤ書55章2節にも同じ意味が記されています。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(イザヤ55:2、3)とあるのです。この世のものにどれだけ費用を費やしたとしても、魂の糧にはなりません。魂の飢え渇きは満たされません。なくてならないのは、主イエスの許に行き、御言葉に聞き従い、真の羊飼いである主イエスにどこまでも従っていく事なのです。
主イエスは、「わたしのもとに来て、その声に耳を傾け、聞き従え」と御声をかけ続けて招いて下さっているのです。その声を聞き分けなければなりません。
真の羊飼いである主イエスの声を聞き分けるなら、なくてならぬものが何であるかを悟ることができます。
主イエスは、御言葉によって魂を生き返らせてくださり、生きる者としてくださいます。
魂に命を与えられた者は、主イエスの導きによって「正しい道」に導かれていくのです。
人生は道に例えられます。
「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」(箴言14:12 口語)という御言葉があります。
自分では正しいと思って歩んで行った道が、死に至る道だったという意味です。どのように華やかな人生であったとしても、行き先が死であるなら、なんと空しい道であるかと思うのです。
人はどのようにして命の道を見出すことができるのでしょうか。主イエスは、絶えず人に救いの言葉を語りかけておられます。その多くは先に主イエスを信じ、救われた人々を通してです。私たちは主イエスを伝えます。また、福音放送や、文書伝道で導かれた人もいます。
ある人は、地方の教会のない町に住んでいました。教会にも行った事はないし、クリスチャンに出会ったことはありませんでした。しかし、ラジオの福音放送を聞いていました。そして、心に主イエスを求めるようになったのです。やがて都会に出て教会に導かれ、献身して牧師になりました。また、ある人は、自分の家の玄関に集会案内を見つけました。だれがおいたのかわからない集会案内によって、教会に導かれ救われました。クリスチャンホームを築くようになったのです。
主イエスはあらゆる機会に、「私に立ち帰れ、正しい道に帰れ」と呼びかけておられます。主イエスは私たちを愛しておられる真の羊飼いです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われたのです。人は罪のために神から離れ、救いから遠い者でした。罪に支配され、平気で滅びへと向かう者でした。主イエスはそのような者すべてを愛し、十字架に架かって死んでくださいました。三日目に甦られて、信じる者すべてに罪の赦しと永遠の命をくださいました。そして、永遠の命に至る正しい道を歩むように、導き続けておられるのです。それは、救いの道、義の道です。
ある時は「死の陰の谷」を歩むような事があるかもしれません。しかし、真の羊飼いが導いて下さり、共におられるのです。平坦な道、安全な所では、羊飼いを忘れてしまうかもしれません。危険で恐ろしい所、苦しい所だからこそ、羊飼いの尊さを覚える事が出来るのではないでしょうか。
23編の冒頭から、「主」とお呼びしているのですが、4節から「あなた」とお呼びしています。あなたはより近しいかたへの呼びかけの言葉です。死を意識するような苦しみの中で救い主を「あなた」とお呼びすることが出来る事は、これ以上ないほどの恵みであり、喜びなのです。この方により頼む時に、失望はありません。間違いなく、神の救いと祝福の満ち溢れた正しい道に導き続けて下さることを心から感謝したいのです。
真の羊飼いの鞭(むち)と杖は私たちの慰めです。道を外しそうになった時、正しい道に引き戻してくださるのです。
苦難の時、試練の時にも私たちの前に宴(うたげ)をもうけて、頭に香り良い聖なる油を注ぎ、杯、すなわち魂を満たし、溢れさせてくださる。生きている限り恵みが追いかけて来る。それが、主イエスが導かれる正しい道の祝福なのです。私たちが祈る時、御言葉が与えられます。御言葉は私たちを御心に導きます。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」。(詩編119:105)御言葉は私たちの道を正しく導く光であり、灯です。
主イエスと、その御言葉を慕い求めましょう。御言葉によっていつも命に満ち溢れる信仰に生きましょう。罪の誘惑がある時、御言葉によってそれを退け、勝利することができます。


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