阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年3月31日
「十字架の愛」ヨハネ15章9-17節

 3月も終わろうとしています。桜の花が咲き始めてすっかり春になりました。今年のイースターは、4月21日です。いつもの年より少し遅いイースターになります。
イースターは、主イエスが復活されたことを記念して祝う時ですが、その前には、主イエスが十字架に架けられて死なれ、世の全ての人の罪を贖うという出来事がありました。主イエスの十字架の死と復活は、私たちの信仰の原点となるものです。
ヨハネによる福音書は21章に分かれていますが、12章には、エルサレム入城が記されており、13章からは最後の食事の記事が始まるのです。全章の半分以上が十字架にかかわる記事で占められています。
 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)という御言葉も、「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15:1)、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)という御言葉も、最後の食事の席でお教えになりました。
 主イエスが最後までお教えになったことは、主イエスにつながることです。主イエスを心から信じ、その命につながって生かされるということでした。 主イエスにつながることは難しいのでしょうか。そのようなことはありません。
主イエスは、「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」(ヨハネ15:3)、また、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15:7)とも言われています。
主イエスを信じ続けるとは、主イエスの御言葉を信じ続ける事です。真のぶどうの木、命の源である主イエスを信じ、その御言葉に従い続けるなら、豊かな実を結ぶことが約束されています。
枝には命はありません。木につながって養分を受けて生きるのです。主イエスから離れては命を維持することはできません。
 これらの事をお話になったのは、十字架を目前にしている時でした。弟子たちに最後の教えをされたのです。
それは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)ということでした。
 まず主イエスの愛にとどまることを教えておられます。ヨハネ15章10節には、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とあります。
このように、主イエスの愛にとどまるとは、主の御言葉に従うことであると言われているのです。
主イエスが教えておられる最も大切な教えは何でしょうか。神と人を愛する事です。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)私たちは、この教えが聖書の中心であることをわすれてはならないのです。
コリントの信徒への手紙T 13章には「山を移すほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」とあります。どんなに強い信仰があっても、その土台に愛がなければ空しいものなのです。
(13:2)強い信仰で神に仕えているようでも、高慢になって自己満足に陥ってしまうなら、その信仰は空しいとあるのです。
主イエスの十字架で示された愛とはどのような愛でしょうか。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Tコリント13:4−7)
このように愛が説明されています。愛は忍耐深く親切です。愛は嫉妬で心をいらだたせることはありません。愛は傲慢さや高慢ではありません。愛は失礼なふるまいをしません。無作法はしないのです。愛は、自分の利益にこだわりません。怒りっぽくありません。いらだつことなく、恨みをいだきません。悪い事をされても気に留めないのです。不当な扱いをされても恨むことはありません。不正を喜ばず、正義を喜びます。
愛はどのような状況の中でも色あせる事はありません。希望を抱き、弱ることはありません。
これが神の愛、アガペーの愛です。主イエスの愛です。
その愛のあらわれが十字架です。
 人は神に造られたものであるのに、罪を犯し神から離れてしまいました。罪と死に支配されるようになってしまったのです。神の愛と正反対の、自己中心にしか生きる事ができないようになったのです。
現在も愛し合わなければならないはずの家族間の犯罪が頻発しています。創世記によれば、エデンから追放されたアダムとエバの家庭で犯罪が起きてしまいました。カインが弟アベルを殺害するという事がおきたのです。理由は弟の献げものが神に受け入れられ、自分の献げものは退けられたからです。カインは怒りを治められませんでした。
なぜ、カインは怒るのでしょうか。静まって自分の心を見つめ、悪かったことを反省し、悔い改めて神に向き合おうとしないのか。自分を見失い、罪に支配される、人間の悲しい姿です。カインだけではありません。人は皆同じような心を持ち、罪に支配され、自分を見失ってしまうのです。
イザヤ書53章6節には、「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」とあります。
誤った生き方、自分の好むところに従って道を進み、自分が行こうとする道に進むのです。罪の支払う報酬は死でしかありません。
神は私たちの罪を解決するために独り子を世に遣わして下さいました。「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)とあります。自己中心しかない人の救いの為、「そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」(イザヤ53:6)とある通り、主イエスが罪を背負って下さいました。
まさに友のために命を捨てるという、これ以上ない大きな愛を表わされました。
主イエスは、御自分の命じられることを行うなら、あなたがたは友であるとも言われたのです。アガペーの愛に生きる事、キリストに繋がり、とどまるなら、友として受け入れてくださいます。
主イエスに選ばれ、友とされ、遣わされる。多くの祝福の実を結ぶ人生に導かれる。これが主イエスの愛に生きる者の祝福なのです。
主イエスの愛に留まるなら、主イエスの喜びが沸き上がります。失われる事のない平安と喜びに満たされるのです。命が木から枝へと満ち溢れるからです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12)
「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:17)
十字架の愛を確信し、主イエスの御言葉を生きる者でありたいと願うなら、聖霊はそのように整え、導き、愛の確信に至らせて下さいます。
私たちの生来の性質にはアガペーの愛はないのです。人間的な狭い、都合の良い愛しか持ち合わせていません。しかし、主イエスの愛を確信し、この愛によって生きる事を日々決断していくなら、わたしたちの内に神の愛が満ち溢れるのです。
愛を見える形であらわす時、それによって、私たちが主を信じる者であることを皆が知るようになります。
主イエスの十字架の愛を確信し、その愛を生活の中で具体的に表す事を求めてまいりましょう。私たちが主イエスを信じ、その愛に満たされている者であることが証しされるように進んでいきましょう。



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