阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年4月7日
「愛と憐みの神」ルカ7章40-50節

 ある日、ファリサイ派のシモンは、主イエスを自宅に招いて、食事を共にする機会を持ちました。主イエスはシモンの家に来てくださいました。主イエスは、たびたびファリサイ派の人々とも食事をなさいました。
シモンは、人々を教え、癒される主イエスに興味を持ち、招待したものと考えられます。
私たちの感覚ではあまり理解できないのですが、この時代、宗教的な指導者などが招かれて食事をする時は、その家に誰でも自由に出入りしてその言葉を聞くことが出来ました。季節の良い時は中庭で食事をしたようです。なおされ出入りしやすかったことでしょう。
しかも、食事は椅子に座るのではなく、左ひじを下にして、低いソファーに横になって食事をしたのです。ダヴィンチの最後の晩餐の絵は、主イエスと12弟子が長いテーブルを囲んで、普通に椅子に座って食事をしていますが、実は最後の晩餐も、横の姿勢であったと考えられるのです。普通その時、履物は脱いでいました。
一人の婦人がイエスの許に近づいてきました。この婦人は、高価な香油を携えていました。イエスの足を涙で濡らし、自分の髪の毛で拭い、足に接吻して香油を塗りました。主イエスを招待したファリサイ派のシモンは、にがにがしい思いでこの出来事を見ていました。
そして、主イエスが尊い預言者であるなら、この婦人がどういう人かわかるはずだ。罪深い女なのにと、心の中で思ったのです。だれもが罪の女と知っている者に、なすがままにさせるとは、何という事だと裁いたのです。
すると主イエスは、すぐにシモンに語り掛けました。「シモン、あなたに言いたいことがある」(ルカ8:40)「先生、おっしゃって下さい」と答えました。すると主イエスは短い例えをお話になりました。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。(ルカ7:41)シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えました。
ファリサイ派のシモンは、主イエスを食事に招待したのですが、大変失礼でした。それは、招いた客が家に着いたら、敬意を表すために三つの事をするべきだったのです。
招待した家の主人は、招いた人の肩に手を置き、平安を祈り、接吻しました。それは尊敬を表したのです。欠かしてはいけない礼儀でした。
また、埃のたつ道を歩いてくるので、冷たい水が用意されていて、足を洗う準備ができていました。足を洗うのはしもべの仕事でしたが、埃で汚れた足を洗ってもらい、さっぱりした事でしょう。また、香りの良い香油が用意されていて、招かれた人の頭に一滴注がれました。暑さや疲れを癒され、歓迎と尊敬が現わされて食卓に着いたのです。
ところが、シモンはこれらのことをしませんでした。自分がしなかったことを、罪深い婦人がしたことについても、裁く心しかありませんでした。
そこで主は例えをお話になりました。500デナリ、つまり、500日分の日当に相当するお金、仮に500万円を借りていた人と、50デナリ、即ち50万円を借りていた人が返済を赦されたとしたら、どちらの人が金貸しを愛し、感謝するだろうかという例え話でした。
シモンは、多く赦してもらったほうだと答えました。
主イエスは、シモンに、この女の人を見なさい、「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶しなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7:44−47)と言われたのです。
ファリサイ派のシモンは主イエスがどのような人なのか興味がありました。罪ある女性も主イエスに心を寄せていました。
この二人はどのように違ったのでしょうか。
シモンは主イエスを自分の家に招待しました。主イエスに敵意は持っていませんでした。しかし、自分が罪人であって、救いが必要であるとは思っていませんでした。
罪深い婦人は、文字通り罪の中に生活していたので、自分の罪が分かっていました。人も知っていたのです。
しかし、この婦人は、シモンの家に来る前にすでに主イエスを知り、自分の罪深さも認識し、罪からの赦しを切に求めていました。
主イエスは、シモンが罪とその赦しについて理解できるように例えを話して下さったのです。
自分は正しい人間であって、罪人ではないと自分の事を思っている人間には、赦しのありがたさなど分かるはずがありません。
罪のない人間は誰一人としていません。誰でも心に罪を持ち、罪に支配されながら生きていくのです。
主イエスは、ファリサイ派の人と、徴税人の例え話でお教えになったことがありました。ファリサイ派の人と、徴税人は祈るために神殿に上って行きました。ファリサイ派の人は立って、心の中で、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11,12)と祈りました。
これは神にささげる祈りでしょうか。そうではなく、自分がいかに素晴らしい人であるかを自慢したにすぎません。祈っているつもりでも、これは祈りではないのです。自分の内にある罪に気が付かず、高慢な者は祈ることはできません。また、他人を軽蔑する人は祈ることはできません。このファリサイ派の人は、徴税人と自分をくらべて、徴税人を見下していました。義とされて帰って行ったのは、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、目も上げず、胸を叩いて祈った徴税人でした。
神がご覧になるのは、他に人と比べてどれだけ良い人間かという事ではなく、自分の罪深さが分かっていて、悔い改めができるかどうかという事なのです。
主イエスに香油を注いだ婦人は、自分がどれだけ罪深いか分かっていました。そしてその罪が赦されている事が分かったのです。ですから主イエスを多く愛したのです。ファリサイ派のシモンは、自分の罪が分かりませんでした。ですから主イエスを愛する事はできませんでした。
人は皆罪をもっています。その罪を赦すために神はその独り子を世にお遣わしになりました。
罪の赦しは、御子の十字架による以外にありません。どのような生活をしてきても、何をしても十字架の前で悔い改めるなら、赦していただくことができるのです。これが神の愛と憐みです。
罪の落とし穴は、自分には罪がないという思いです。自己評価と自己満足では天の御国は遠いのです。
愛がない、赦すことがない、神を愛していると言いながら従う事がない、御言葉をいいかげんに聞き、自分の好む所だけ受け入れる、など、陥りやすい、流されやすい心を人は持っています。
しかし、愛と憐みに富む神は、そのような者を受け入れてくださるのです。「主は憐み深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない。父がその子を憐れむように主は主を畏れる人を憐れんで下さる」(詩編103:8−10、13)とある通りなのです。
罪の自覚があれば、十字架の赦しのありがたさと、尊さがわかります。罪の自覚がなければ十字架の愛はわかりません。
イースターを21日に迎えますが、主イエスが私たちすべての者の罪のために十字架の道を歩まれた事を、ことさら覚えていきたいと思います。日々悔い改め、清い新しい御霊に満たされ、主の愛と憐みに満たされ主イエスと共に進みましょう。



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