阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年4月14日
「受難の意味」ヨハネ12章20-26節

 今日から受難週に入ります。主イエスが十字架に架かられる週です。私たちは、常に十字架の主を見上げて進みますが、今週はさらに十字架の意味と、罪が赦され、贖われた事を思い、悔い改めをもって歩んで参りたいと思います。
さて、過越しの祭りを祝うために多くの人々がエルサレムに集まっていました。その群衆は、主イエスがエルサレムにお入りになると聞いて、なつめやしの枝を持ってお迎えしました。口々に「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)と叫び続けてお迎えしました。主イエスがエルサレムにお入りになった日曜日を「棕櫚の聖日」と言います。
口語訳聖書では、「棕櫚の枝」をもってイエスを迎えたとあります。
日本では一般的ではなかったなつめやしは、しばしば「棕櫚」と訳されたようです。
群衆は、主イエスが力ある業をなされている事を知っていました。べタニアのラザロが甦らされたことも知っていたのです。
この方こそイスラエルをローマ帝国の圧政から解放して下さり、王となって下さる方と思い、歓迎したのです。この歓迎ぶりは、主イエスに敵対するファリサイ派を、「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男についていったではないか」と言わしめるほどでした。
しかし、主イエスがこの世に遣わされたのは、地上の王になるためではありませんでした。全世界の罪の贖い主として来てくださったのです。
さて、この祭りの時、数名のギリシャ人がエルサレムに滞在していました。この人たちは、12弟子の一人、フィリポの許に来て、主イエスのお目にかかりたいと願いました。
フィリポはアンデレに相談し、二人で主イエスのところへ行きました。
そうすると、主は面会の応諾には首をかしげるようなお答えをなさいました。「ギリシャ人がお目にかかりたいと言っています」とお聞きしたのに、「人の子が栄光を受ける時が来た」とお答えになったのです。
以前、カナの婚礼のおり、母マリアが主イエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と伝えたら、「わたしの時はまだきていません」(ヨハネ2:4)とお答えになりました。しかし、主イエスは最上のぶどう酒を豊かに備えて下さいました。
ヨハネによる福音書には、人がこの地上の事を話すと、主は霊的なお答えをされたことがしばしば記録されているのです。
主イエスの、「わたしの時」、「栄光を受ける時」が来たというお言葉、それは、主イエスの十字架の時が来たという意味なのです。十字架というのは、ローマ人が考え出した最も残酷な処刑の方法です。
主イエスは、その十字架を、栄光を受ける時と言われたのです。
そして、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:23)とお答えになりました。
麦はパレスチナでも一般的な穀物で、創世記にも記されています。
また、ルツ記には、ダビデの祖先となったルツが、姑(しゅうとめ)ナオミとベツレヘムへ帰ったのは、大麦の収穫の頃であり、後に結婚するボアズの麦畑で落穂拾いをしたという記事が記されています。
私たちも、麦そのものは毎日食べる事はなくても、小麦粉からできているパンや、うどんなどの製品はよく口にしているのです。
主イエスの時代にも、5千人の人を養った大麦のパンについて記されています。
過越しの祭りが近い時、主イエスの許に群衆が押し寄せてきました。主イエスはフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とお聞きになりました。ご自分では何をしようとされるのか知っておられたとあります。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。ペトロの兄弟アンデレが、一人の少年を連れて来て、「この少年が、大麦のパン5つと、魚2匹を持っています。けれども、こんなに大勢の人では、なんの役にも立たないでしょう」と言いました。
ところが、主イエスがパンと魚を祝福して人々に分けると、皆満腹するまで食べる事ができました。残ったパンくずは12の籠に一杯になったのです。男の人だけで5千人の人が食べたのです。
この時、人々が主イエスを王にするために連れて行こうとするので、主は山に退かれたとあります。
また、その翌日、人々は主イエスを追いかけてカファルナウムまでやってきました。主イエスは、その目的は、パンを食べて満腹したからだと言われたのです。
人々は、食べ物のパンが欲しくて来たのですが、主イエスは、永遠の命についてお教えになりました。
主イエスは、「わたしは天から降ってきたパンである」(ヨハネ6:41)と言われたので、人々は主イエスに対してつぶやき始めました。しかし、主イエスは本当に大切な事をお教えになったのです。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは。天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉の事である」(ヨハネ47、51)主は、「はっきり言っておく」と、12章4節で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」というお言葉の前にも言われています。これは、本当に大切な事をお教えになる時に使うお言葉です。「アーメン。アーメン」、即ち、「真実を、最も真実にあなたに告げる」という意味です。
主イエスは命のパンとして、人々に永遠の命を与えるために、地に落ちて死なれたのです。パンを食べる時、私たちは、咀嚼し、呑み込みます。お腹に入り、パンは消化されて体を養い命となります。
主イエスは一粒の麦として十字架で命を捨てられ、砕かれ、人に永遠の命をお与えになりました。
一粒の麦が地に落ちて、その麦の命が多くの実を結ぶ、大きな収穫となることを教えて下さいました。
人が永遠の命を頂くためには、主イエスの十字架の死と復活が必要でした。一粒の麦となられた主イエスは、命の麦です。命のパンなのです。
主イエスが一粒の麦となって死んでくださったことにより、全世界が救いを受ける事ができるという多くの実を結びました。
さらに、主イエスは、私たちすべての者に「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と言われています。
主イエスに仕え、従う事は、クリスチャンの使命です。主イエスの栄光を表す事です。そして、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)と教えておられるのです。この世を愛し、この世の事ばかりで生きるという事は、主イエスの教えからは遠いのです。主イエスを信じた時、古い自分は死んだのです。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)
自分の古い自我を捨て、キリスト共に十字架に架けられて者として死ぬなら、キリストと共に新しい命と力によって生きる者とされます。キリストの復活の命で生かされるのです。そして、多くの実を結ぶ人生を送ります。
主イエスは、全世界の救いのために一粒の麦として死んでくださいました。そして、復活された救い主です。
主イエスを心にお迎えし、復活の力と命に満たされ、新しい命の実を豊かに結ぶ信仰に生かされたいのです。
主イエスの聖い御霊に満たされましょう。何が御心であって、神がお喜びであるかを吟味しましょう。
私たちを生かすために命を捨てて下さった主イエスの十字架を思いめぐらし、主の死と復活に預かった者として、主に仕え、日々どのように従うかを祈りながら、受難週を送って参りたいと思います。主イエスに仕える者を神は大切にしてくださるのです。主の十字架の犠牲によって命に生かされている事を心より感謝します。私たちも一粒の麦として多くの実を結ばせていただきたいと祈ります。



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