阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年4月21日
「勝利の復活」コリントの信徒への手紙T15章50-58節

 主イエスの復活を感謝します。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」
(Tコリント15:14)とあります。
主が復活されなかったら、私たちの信仰も、宣教も無駄、空虚であるだけではなく、罪の贖いもなく、実体のないことを語る者でしかないという事になってしまいます。
しかし、キリストは、十字架で死なれ、墓に葬られて三日目に復活されました。
私たちの信仰の基は、主イエスが私たちの罪のために死んでくださった事、墓に葬られて三日目に復活されたことです。
「最も大切なこととしてわたしがあなたたちに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりにわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(Tコリント15:3、4)とある通りです。聖書に書いてあるとは、旧約聖書のメシア預言とよばれる、メシアの受難と復活を言っているのです。
この手紙を書いたパウロは、旧約聖書全体からキリストの死と復活を思い起こさせています。メシア預言で特に有名なのは、詩編16編10、11節、22編やイザヤ書53章などです。また、ヨブ記19章25−27節にも、「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。」とあって、復活について預言している箇所として知られています。
ですから、キリストを信じる信仰とは、主イエスは私たちの罪のために十字架で死んで下さり、墓に葬られて、三日目に甦られたということが中心であり、土台なのです。
イースターは、キリストが墓の中から甦られた事を祝い、また、キリストの復活により、わたしたちも甦りを信じ、信じている事を確認する日であると考える事ができます。
人が絶対に勝てないと思う事に死があります。この地上に生まれて来た者は、いつの日か必ず死を迎えます。
この地上での命を終えない人はいません。そして、死ねばすべてが終わると考えるのです。
しかし、聖書はそのようには教えていません。やがて皆、キリストの前に立つ時があると記されています。
「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住かとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(Uコリント5:10)とあります。
だから、日々、主に喜ばれる者でありたいと聖書は勧めています。
「だから、体を住かとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(Uコリント5:9)とあって、この世で生きている時も、召されてからも、ひたすら主に喜ばれる者でありたいと願うのです。
私たちには、主が甦られたように、主を信じる者は皆、永遠の命に生かされるという、復活の希望が与えられています。
主イエスを信じた時に与えられたのは、永遠の命です。体はやがて朽ちてなくなっても、永遠の命はなくなりません。そして、体の復活が約束されているのです。
神は、この世を愛されました。その独り子であるキリストを遣わされ、罪を赦すために十字架に架けて下さいました。身代わりの死です。
私たちは、キリストが打たれ苦しめられた傷によって、癒されたのです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
(Tペトロ2:22−24)
何のとりえもなく、罪深い者のためにキリストは十字架に架かって下さいました。この方の十字架の死と復活を信じ、告白する者は誰でも罪から解放されて、新しい復活の命で生きる者となります。
死は終わりではありません。
Tコリント15章50節に、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」とあります。生まれながらの人、キリストの贖いを受けていない人は、朽ちないもの、永遠の神の国を継ぐことはできません。
しかし、ここで神秘、即ち奥義が語られます。それは、キリストが再び来られるとき、たちまち一瞬のうちに変えられ、朽ちない者にされるのです。朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを必ず着るとあります。神秘、奥義とは、頭で理解できるものではなく、信仰によって信じることです。
この地上をはるか昔に去った人であろうと、もうすでに体は朽ち果てているような人であろうと、キリストの時に、一瞬にして朽ちない体を着せられて、もはや死ぬことも朽ちることもない者に変えられるのです。この希望が私たちの永遠の希望です。
今日は、午後から和田寺霊園で墓前祭と梶本好子姉の納骨式があります。先に召された兄や姉に、今は会う事はできませんが、やがてキリストが再臨される時、復活の体をもって再会し、キリストを褒め称えることができるのです。
体の死はこの世の命の終わりであっても、わたしたちの存在の終わりではありません。
人が主イエスを信じるなら、主の十字架の罪の赦しを受けるはずです。というのは、人は自分の罪を認め、主イエスに赦しを求めるとき、癒され、赦されるからです。しかし、なかなか罪がわかりません。心の中の罪とは、自分中心で、人を見下げたり、高慢な心に気が付かない事です。差し伸べられている救いの御手を振り払う事です。朽ちる者の特徴なのです。
そのままでは神の国を受け継ぐことはできません。
イエスの十字架こそ、この罪の贖いであったことを信じる時、罪から解放されるのです。永遠の命をうけるのです。主の十字架で罪赦された者は、臆することなく、主の前に立つ事ができます。なぜなら、十字架によって罪が赦され、小さな歩みであっても、「忠実な者よ、よくやった」と語ってくださる事を信じる事が出来るからです。
贖われた者は、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Tコリント15:54−56)死と罪から完全に開放して下さった、主イエスを褒め称えたい、死に打ち勝ち、永遠の命に満たして下さった方に賛美を捧げたいと心から願うのです。
そして、復活の希望、永遠の希望に満たされた者は、しっかりと、主の御心に立ち、動かされないで主の業に励むようにと、勧めの言葉が続いています。主イエスに結ばれ、その命に預かっているのなら、主のためにたとえ今、労苦があっても、それは決して無駄になることはありません。
復活祭のこの時、私たちは自分自身の心を探り、自分の信仰を省みなければなりません。復活の命に生かされているのか、どのようにして毎日主イエスに従っているのかを考える時です。
私たちはこの地上で生かされるときは短いのです。そして、やがては召されて行きます。
短いからこそ、一日一日を感謝し、自分を満足させるための日々ではなく、主イエスに喜んでいただける日々を送りたいのです。
復活の希望に生きましょう。復活が私たちの希望であり、慰めなのです。
この永遠の命を主イエスが再び来られる時まで、語り続けて生きましょう。


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