阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年4月28日
「信仰を持って」ヨハネ20章19-29節

 先週は、主イエスの復活をお祝いするイースター礼拝、愛餐会、墓前祭、梶本好子姉の納骨式を行うことが出来ました。すべてに主のすばらしい祝福が注がれたことを感謝します。
 きょうも復活の主を仰ぎながら、礼拝をささげたいと思います。
主イエスは、全世界の罪の身代わりとして十字架に架けられ、死んで葬られ、3日目に復活されました。今生きておられて私たちを救い、助けて下さるお方です。
主イエスが復活された日曜日の朝、主イエスの遺体は墓にはありませんでした。十字架に架けられた金曜日の夕方から安息日が始まるので、主イエスはアリマタヤのヨセフが持っていた新しい墓に、急いで葬られました。主イエスに従っていた婦人たちは、主イエスがどこに葬られたのかを見届けて、日曜日の朝早く、葬りの為の香料と香油を持って墓に出かけました。
 ところが主イエスの遺体は墓に見当たらず、天使が「生きておられる方を死者の中に捜すのか。主イエスはここにはおられない。復活されたのだ」と語りました。かつて、主イエスがご自分の受難と復活を語られた通りの事が起きたのです。婦人たちは急いで弟子たちにこの事を知らせたのですが、弟子たちはばかげた話だと、信じようとはしませんでした。しかし、ペトロは墓に走っていき、中をのぞくと亜麻布しか残っていなかったので、不思議に思いながら帰ったのです。ペトロも主イエスの復活を信じる事はできませんでした。
 主イエスが復活された日曜日の夕刻、弟子たちは家に鍵をかけて閉じこもっていました。ユダヤ人たちを恐れたのです。自分たちも逮捕されて十字架に架けられるのではないかと不安に思っていました。そこへ、主イエスが来てくださいました。弟子たちの真ん中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」とあいさつされたのです。そして、ご自身の手とわき腹をお見せになりました。当然そこには釘跡と、やりの跡がありました。
そこにいた弟子たちは、大喜びをしました。主イエスが来てくださったのです。主イエスは、大切なことを告げられました。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。・・・聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:21−23)
 弟子たちを遣わされる事、聖霊を受ける事、罪の赦しについて、語られました。
聖霊は、聖い霊です。誰でも主イエスを受け入れた時、聖霊がその人の内にお住まい下さいます。聖霊は、愛、喜び、平和の御霊です。聖霊を受けた者は、このような実を結ぶのです。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤ5:22,23)
とあります。聖霊を内に注がれるなら、恐れから解放され、平和な心を持ち、罪の中にいる人々のために執り成し、赦す人となると主イエスは教えられました。十字架の血潮で罪赦された人は、平安な心で人を赦し、執り成す者なのです。主イエスは一貫して、赦す事を常に強く教えておられます。赦さなければ赦されない事をしっかりと心に留めなければなりません。「赦さなければ、赦されないまま残る」のは、自分に残る事であると心に覚えなければなりません。
 弟子たちは、復活の主イエスにお会いして、平安をいただくことができました。
その時、トマスはその場にいませんでした。彼はディドモとも呼ばれていました。トマスも、ディドモも、双子という意味です。
弟子たちが、わたしたちは復活された主にお会いしたと言っても、トマスは信じませんでした。主イエスの、「手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25、26)と言い切りました。釘付けされたその手の傷と、ローマの兵士が刺し通したわき腹の傷を見て、実際に手で触れてみなければ、主イエスの復活は信じないと言ったのです。
 そして、八日後、弟子たちは家の中にいました。そして、この時にはトマスも一緒にいたのです。前回と同じように、家には鍵がかかっていたのに、主イエスがお入りになられて、「あなたがたに平和があるように」とあいさつしてくださいました。
 主イエスはトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われました。
トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と言いました。主イエスは、トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)とお教えになりました。
 主イエスは十字架の少し前、べタニアのラザロが病気だと、知らせを受けました。しかし、主イエスは二日も滞在されている所を動かず、ラザロがすでに死んだと知っておられました。それは、「神の栄光の為、また、あなたがたが信じるようになるため」だと言われました。そして、いよいよ「彼のところに行こう」と言われた時、トマスは弟子たちに
「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11:16)と言ったのです。
 主イエスに危険が迫っていることを知っていて、主イエスと共に死のうと考えるほど主を愛していた人だったのです。
また、主は、最後の食事の席上で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14:3、4)とお話しなさいました。主イエスは御国に迎えてくださる事を話されたのですが、トマスにはわかりませんでした。「わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」とお聞きしました。その時、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と教えて下さったのです。
トマスは、分からなければ聞く人でした。頭で理解できなければ納得しない人でした。ですから、他の弟子たちが「復活の主イエスがここに来てくださった」と言っても、信じなかったのです。
そのトマスも主にお会いすることができました。主イエスが、たとえ肉の目で見ないのに、信じる人は幸いだと言われた時、トマスは悔い改めました。頑なですぐに疑い、信じない自分に気がついたのです。
私たちも今、この目で主イエスを見る事はできません。しかし、私たちのために十字架で死なれ、三日目に甦られた主イエスを信じて喜びに満たされているのです。主イエスが復活されたように、わたしたちも復活するという希望に喜んでいます。それが信仰です。
「あなたがたはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びにあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Tペトロ1:8、9)
主イエスの救いを受けた者は信仰の実であるすばらしい喜びに溢れて生きているのです。喜びは信仰の証です。
欧米ではトマスという名の人は珍しくありません。トムと呼ばれることも多いのです。
それは、12弟子のトマスが殉教するまで信仰の道を貫いたことの証拠です。トマスはインド伝道に導かれ、教会を建て上げたという伝承が残っています。
私たちは生ける主、イエスを信じる信仰によって進み、見えない主イエスが私たちを通して見えるように生きる事、それが主イエスの栄光を表す事なのです。信仰は生活です。主イエスが生きておられることを
日々表しながら進んでいきましょう。


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