阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年5月5日
「愛の牧者」
ルカ15章1-7節

  先週は、平成から令和という元号に変わったという事で、世の中は大騒ぎでした。現在元号を使う国は日本だけのようですが、西暦に対して和暦ともいうそうです。近代では天皇の代替わりに合わせて元号が変わっています。この世の中にはいつまでも続くものはありません。移り変わっていき、やがてなくなります。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」(Tペトロ1:24)とあります。
世の中のものがすべて移り変わり、失せてしまっても、主イエスとその御言葉は永遠に変わらないと宣言しています。
私たちは、世のものに頼るのではなく、見える者に寄り縋るのではなく、永遠に変わらないイエス・キリストとその御言葉によって生かされている者なのです。救いを受けている者であることを誇りとし、喜びましょう。
ルカによる福音書15章には、3つの例え話が記されています。いずれも主イエスがお語りになった例えです。それは、「見失った羊」、「亡くした銀貨」、「放蕩息子」のたとえ話です。
3つのたとえ話には、共通する教えがあります。いずれもおるべき所から離れて失われていた存在が、見出されておるべき所に帰る事ができ、命を得たという事です。
主イエスは、人間の高慢さに対して謙遜になるようにと、事あるごとにお教えになりました。
人間は自分を上位に置きたがるという心を持っています。主イエスが宴会の席で、招かれた客が上座を選ぶ様子をご覧になって、上座よりも末席に座りなさい。そうすると、招いてくれた人が、「さあ、もっと上席に進んでください」と言うだろう。最初から上座に座っていて、後からもっとそれにふさわしい人が来たので、席を移動するようにと言われたら、恥をかくことになると語って下さいました。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14:11)と教えられたのです。
主イエスの許に、その教えを聞こうと、徴税人や、罪人がやって来ました。すると、ファリサイ派や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とつぶやき、裁くことを止めませんでした。
そのような状況の中で、主イエスは3つのたとえ話をお話になったのです。最初のたとえ話は、見失われた羊の話です。
「あなたがたのなかに100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ15:4−6)
というものです。
イスラエルでは羊は珍しい動物ではありませんでした。羊の毛から織物を織って、床に敷いたり、テントも丈夫な羊毛でつくられました。羊は財産として大切に育てられました。
羊飼いにとって、100匹のうち1匹がいなくなってしまったということは、大変な事でした。残り99匹が無事ならそれ良いとは言えなかったのです。
イスラエルの羊飼いの仕事は過酷なものでした。平地が少なく、すぐに絶壁があって、下手をすると落下してしまう、あるいは、砂漠の中に迷い込んでしまうといった状況でした。柵などはありませんから、羊も迷う事が多かったのです。
また、羊は個人の持ち物ではなくて、村全体の財産でした。いつも村から複数の羊飼いが任務を与えられていて、毎日羊を守っていました。夕刻、同じ時間に帰る事もあり、あるいは、まだ羊を捜しているという報告を受ける事もあったのです。
羊飼いは自分の危険をも顧みず、いなくなった羊を捜しまわります。
羊は迷うと自分では生きていく事ができません。すぐに飢えと渇きで命を落とすか、他の動物に襲われてしまいます。時間の猶予はありませんでした。探し回り、やっと見つけ出したら、羊飼いは羊を肩に担ぎ、連れ帰ります。
村の人々は、羊飼いの帰りを待ちます。そして、羊飼いの大きな呼び声に村全体から大きな喜びと感謝が沸き上がるのです。
「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」という叫びに、全体の大きな喜びの声が上がるのです。
この例え話から、神の愛を知ることが出来ます。羊飼いが羊を一匹ずつ知っているように、神は私たち一人一人を良く知っておられて常に目を注いでいてくださいます。
神は、私たちの名前を呼んでくださいます。名前を知るとは、ただ単に誰々さんといった名前だけを知っているということではありません。私たちの心のすべて、存在のすべてをご存じなのです。
主イエスは、「5羽の雀が、2アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも1本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(ルカ12:6,7)と言われました。
マタイによる福音書では2羽の雀が1アサリオンで売られているとあります。2アサリオンで4羽買えるはずですが、5羽2アサリオンということは、1羽はおまけのような考え方になるかもしれません。小さな雀、少額のお金で買えるような雀さえ神様は心に留めて下さる。ましてや、あなたの事はもっと、もっと大切に思い、髪の毛まで一本残らず数えておられるとあるのです。
私たちの一人一人がどのような人間であるか、何を考え、どのような心であるかをすべてご存じであって、愛しておられるのです。
羊は迷ってしまうと生きられません。命を守ることはできないのです。人は罪のために主イエスから離れ、道をそれる事があります。しかし、羊飼いは見つかるまで探すのです。その羊の命と魂を愛するからです。
羊は私たち一人一人です。
主イエスは、このたとえ話の最後に、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)と言われたのです。
自分は正しい人間で悔い改める必要などないと、高慢な思いを持つの
ではなく、神から離れ、罪の中にいても、羊飼いの声に応じてそのもとに戻る人、即ち、悔い改める人の為には、神の国に大きな喜びの声が上がるのです。無くしてしまった銀貨が見つかった時にも、隣近所の人々と共に喜び合い、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(ルカ15:10)とあり、また、放蕩息子が悔い改めて父の許に戻ってきた時、祝宴を開いた父親に苦情を言った兄息子に、父親は、「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:32)と、語りました。
一人の人が生き方を変えて羊飼いである主の招きに応じて従う時、天国では大きな喜びの声が上がります。
羊飼いは忍耐強く、愛の忍耐をもって呼びかけ、探し求めてくださるのです。
主イエスは、この例え話を悔い改める必要などないと思っていた人々に語りました。悔い改めることの大切さ、砕けた悔いた心の大切さと尊さを示したのです。
羊飼いの許から離れて迷い、滅びを待つしかなかった者を、愛の主は、捜し出し、救って下さいました。人にとって必要な事は、主イエスこそ、罪から私たちをお救い下さる救い主であることを信じる事なのです。罪とは、主イエスから離れ、迷う事です。
主イエスは今日も明日も、これからも迷う羊を求めておられます。私たちもこの愛の牧者と共に魂を捜して歩み続けたいのです。
天で大きな喜びの声が上がる、なんと素晴らしい事ではありませんか。
この牧者の手として、声として、足として用いられていきましょう。


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