阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年5月26日
主イエスの平安
ヨハネ14章25-31節

 人は生まれてからこの世を去るまでの間、それぞれの人生を送って行きます。多くの人が共通して望むのは、人生が平安であることだと思います。それは、この世における人生の平安です。
平安とは、どのような状態をいうのでしょうか。貧しければ、お金を得る事によって、平安になると考えます。病気があれば、それが癒されれば平安かと思います。なにか困っている事があるなら、それが解決すれば平安だと思うのです。
現状はどうでしょうか。だれでも平安な状態で生きていきたいと思っても、問題は次々と起こり、心が休まることはなかなかありません。
それは、この世には絶対に平安であるという保証がないからです。金銭問題が解決しても、又別の問題が起こるかもしれません。病気が癒されても、また別の病気を患う事もあるのです。
常に心に不安をかかえて生きるのが人ではないでしょうか。
主イエスは弟子たちに、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)と言われました。
主イエスは、「わたしの平和」、主イエスの平和を与えて下さると約束なさいました。
 主イエスを信じているクリスチャンは、だれでもこの御言葉を信じています。しかし、クリスチャンであっても、時に心に平安がなかったり、心が騒ぐような事があるのではないでしょうか。
 そのような時には、聖霊に心を探っていただく必要があります。
主イエスは天に昇られました。しかし、別の助け主が与えられたのです。その方は、「弁護者、慰め主であり、とりなしてくださる方」、主イエスのお言葉をことごとく思い出させて下さる方、真理の御霊です。
聖霊は、私たちと神との関係が、正しく保たれているのかを示して下さいます。
神は、その独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わされました。
全世界がこの方の十字架により、神と和解するためであると、コロサイ書には記されています。
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロサイ1:19、20)とあります。
神との和解とは、神から離れ、迷っていた者が悔い改めて神の許に帰るという事です。十字架の贖いにより、罪が赦されて神のものとされて永遠の命を生きるという事なのです。
神の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者とされたのです。そのような者は、この世の荒波の中にあっても主イエスの平安に満たされるはずです。
自分の身の回りには様々な困難や、世の誘惑があるけれども、心には主イエスの平安がある、これがクリスチャンの証しです。
大切なのは、常に神の前にあることなのです。もし、心に罪があるなら、神との間に石が置かれたようになってしまい、しだいに道をそれて行く事さえあります。
ペンテコステの日に建て上げられた初代教会は、大変恵まれていました。三千人という人が主イエスを信じて救われ、パンを裂き、賛美し喜びと真心をもって礼拝し、祈りが絶えませんでした。何よりも、心を一つにしていたとあります。そのような信仰の姿は、人々の心を打ち、好意を寄せるという結果をもたらしました。すばらしい教会でした。
救われた人々は、すべての物を共有しました。それぞれが財産や持ち物を売って皆が必要に応じて分け合ったのです。
持ち物を自分のものだと主張する者はありませんでした。さらに、土地や家を持っていた人はそれを売って、その代金を使徒たちの足元に置きました。バルナバもそのようにした人の一人でした。どうしてそのようなことができたのでしょうか。これは私が生きていくために必要な財産だから、大切にとっておかなければならない。これがなければ生きられないなどとは思いませんでした。主はすべてを備えて下さり、必要は満たされることを信じて、平安だったからです。誰かに強制されたことではありません。主に全てを委ねきった者の平安と感謝のあらわれでした。
しかし、残念な事がありました。アナニアとサフィラという夫婦は、土地を売りましたが、その一部を持ってきて使徒たちの足元に置きました。二人は共謀してこれは土地代金の全てだと偽りました。
使徒ペトロは、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうしてこんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(使徒5:4)と言いました。
妻のサフィラも使徒の問いに偽りの答えをしたために、夫婦ともに息絶えてしまうという、出来事がありました。
神を偽ることは大変な罪なのです。
無理に土地を売る事はありませんでした。さらに、「私たちは土地を売りましたが、その一部を持ってきました」と、正直に言えば何でもない事でした。しかし、皆がすべてをささげているのに、自分たちが一部だけなら、信仰の薄い者だと思われてしまうといった、人間的な見得があったことと、もともとささげたくないという思いがあったのかもしれません。周囲の人ばかり見て、神を見上げる事がなく、心には平安はありませんでした。
 神との間に罪の石がおかれたままではいけないのです。御心を正しく受け取ることができません。彼らは御心に沿わない事をしてしまった。神を欺くという残念な事になったのです。
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさすことがおできになります」(Uコリント9:7、8)
 私たちの父なる神は、このように豊かな神なのです。この方を信じるなら、恐れたり、心配することがあるでしょうか。
主イエスの平安とは、聖霊が内から沸き上がり、溢れる平安です。
主イエスは、「心を騒がせるな。おびえるな。」と励まされます。
主イエスは、「世の支配者は、わたしをどうすることもできない」と言われました。サタンは、主イエスの十字架の贖いを否定し、私たちの心の不安と不信仰に働きかけます。しかし、十字架は完全な勝利です。
 いついかなる時でも、主イエスの十字架を見上げ、罪を悔い改めるなら、直ちに心は平安に満たされ、勝利をします。
もし、真の救い主を信じることなく、人生を送ったら、どのような人生になるのでしょうか。
過去のさまざまな失敗や、取り返すことのできない過ちに苦しむでしょう。また、現在過ちに気づいていながらも、自分の力ではどうしても立ち直れない苦しさを持つかもしれません。そして、これからの生活のすべての見通しが立たずに、不安を抱える事があるでしょう。
人が見る所では、立派に見えても、実は罪にまみれて苦しんでいる事が多いのではないでしょうか。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(へブル13:8)
主イエスを信じる者は、過去も現在も将来も、すべてお任せすることができるのです。死にさえ勝利してくださいました。
私たちは、過去の罪が赦され、今も癒され、これからも祝福が約束されています。
主イエスは、わたしたちが平安に満たされるよう御言葉を下さり、生きておられる神として、永遠に働きかけてくださいます。
何があっても、十字架を見上げ、主イエスの平安に満たされ、勝利しましょう。
常に喜び、感謝し、祈り続けるクリスチャンであって、その生き方そのものが多くの証しであるように進んで参りましょう。


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