阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
ペンテコステ礼拝
2019年6月9日
わたしの証人となる
使徒1章6-9節

 主イエスは、全世界の罪の贖いとして十字架に架かられ、死んで葬られ、三日目に甦られました。これが私達の信仰の告白です。
生きておられる主イエスと共に歩むことが出来ること、それこそクリスチャンの最大の特権です。
主イエスは、生きておられるので、祈りを聞き、私達の全生涯を導いて下さるのです。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ7:25)
生きておられる主イエスがわたしたちを救い、執り成してくださる事を忘れてはなりません。
さて、主イエスは復活されてから弟子たちに現れ、励まされ、エルサレムを離れないで、父なる神が約束された聖霊が臨まれるのを待つようにと言われました。
主イエスは、弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と告げられました。
弟子たちは、集まり、熱心に祈っていました。
やがて五旬祭の日になりました。それは、ギリシャ語でペンテコステ(50)という祭りでした。過ぎ越しの祭りの安息日から数えて50日目に行われるので、ペンテコステと呼ばれていたのです。
主の弟子たちは、主イエスが昇天前に言われたお言葉に忠実でした。エルサレムで120名ほどの人々が祈り続けていました。
ペンテコステの日にも、集まり、祈っていました。その時、主の約束の聖霊が降られました。
それは、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2−4)と記されている出来事でした。
約束の聖霊が降ったのです。
この時、物音を聞いて、大勢の人が集まってきました。外国に生活の拠点を持っていた、ディアスポラと呼ばれるユダヤ人たち、また、巡礼のためにエルサレムへやって来た人々もいました。
彼らは、自分の故郷の言葉で使徒たちが祈っているのを見聞きして、あっけにとられたのです。
そして、わざわざ自分たちの出身地を挙げました。15の地名が挙げられています。チグリス、ユーフラテス川流域にあった、パルティア、メディア、エラム、メソポタミア。トルコ半島にあった、カパドキア、ポントス、アジア(地方)、フリギア、パンフリア。ユダヤ(地方)、北アフリカのエジプト、リビア。ローマからの滞在者、クレタ、アラビアから来た人々がいました。
大変遠くの国々からやって来たのです。そこで生まれて、当然その地方の言葉を使う人々でした。彼らは、他国で生活していても、ユダヤ人の会堂を建て、安息日に集まり、律法を守っていたのです。
使徒たちは聖霊に満たされて何を語っていたのでしょうか。ディアスポラたちは、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(使徒2:11)と証言しました。
神の偉大な業とはなんでしょうか。主イエスの十字架の贖い、この方を信じる者は罪赦され、救われ、永遠の命を得るという福音です。
全世界を救うため、神はイエスをこの世に賜ったのです。そして、十字架の贖いを完成されました。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒2:21)のです。素晴らしい救いの時、恵みの時代を迎えたのです。
彼らは、それぞれの反応を表しました。嘲(あざけ)る人々がいました。
使徒たちの様子を見て、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っている」(使徒2:13)と嘲る者がいました。人の心の頑なさはこのような反応を示すのです。神の偉大な御業が現れたのに、信じられないことは、大きな人の罪です。
ペトロは、他の十一人と共に立って、大きな声で話し始めました。彼はガリラヤ湖の漁師をしていました。主イエスが逮捕されて大祭司カヤファの庭で裁かれている時、「あなたもあの人の仲間だ。言葉でわかる」と指摘されたように、ガリラヤ方言で語る人でした。
イエスの仲間だと指摘されて、主イエスを三度も強く否定するような弱い者でした。しかし、この時、立ち上がり、人々に力強く主イエスとその十字架、復活、救いを語りだしたのです。
ペトロは、詩編を引用しながら、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」(使徒2:32)と語りました。あなたたちは、神が救い主として遣わされた方を十字架につけて殺してしまった。しかし、主イエスは神の右に上げられ、かねて約束された聖霊を注いで下さったと、力強く語りました。
「あなたがたは、今、この神の救いと、約束された聖霊が注がれたことを、見聞きしているのです。」
このように、人々に大胆に語った時、人々は心を強く打たれました。
聖霊が降ったことを信じる事が出来ないで嘲(あざけ)る者もいましたが、心を刺された人々もいたのです。
心を打たれた人々は、ペトロたちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(使徒2:37)と聞きました。
すると、ペトロは、「悔い改める事と、バプテスマを受ける事」、主イエスにより、罪を赦していただく事。そうすればだれでも聖霊を受けると答えました。これらの約束は、ユダヤ人であろうと、異邦人であろうと、すべての者に与えられている約束なのです。
悔い改めるとは、心を変え、生き方を変える事です。主イエスを信じて従う生き方に方向転換することです。悔い改める以前の人の姿をテトスへの手紙はあからさまに記しています。
「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです」(テトス3:3)とあります。
そして、そのような者だという自覚さえもなかった者なのです。
しかし、神は、救い主イエスを通して人を新しく造り変え、聖霊を豊かに注いで下さいました。
ペトロの説教を聞き、主イエスを信じ救われた者は、ペンテコステの日に3千人ありました。キリストを信じる者の群れ、エクレシアが建て上げられ、祈り、礼拝し、教えと交わりを熱心にしていました。教会が建て上げられたのです。
教会は、聖霊によって建て上げられたのです。教会は聖霊の教会です。聖霊に満たされたクリスチャンが集うからです。
教会は、主イエスを信じる者の群れであり、主イエスを信じ、聖霊に満たされ、主に従う事に熱心であり、聖霊によって遣わされ、主イエスの証人として用いられるのです。
ペンテコステの日に聖霊が注がれることを見聞きしたディアスポラや巡礼者は、自分の国々へと帰りましたが、信仰を持って帰った人々がいました。パウロの第一次伝道旅行の訪問地は、彼らの住む所と重なっています。すでに福音を持ち帰った人々がいたのです。
また、エルサレム教会はこの日に主イエスを信じた人々によって造られました。主イエスは、「聖霊が降ると力を受ける」と言われました。その御言葉は今も変わる事はありません。
聖霊に満たされると自分の肉の力ではなく、聖い神の霊によって、主の証人とされるのです。
生きておられる主イエスが私を救い、力を与えて主の福音に用いて下さるのです。自分には力はありません。聖霊は力です。そして、慎みと愛の霊です。
主イエスのために何をすればよいのか教えて下さり、私達の魂を砕いて、従順と謙遜に導かれるのです。また、神の教会に一致を与えて、主の福音のために豊かに用いて下さいます。主の証人とされている事を喜び、日々用いられ、福音を伝えて参りましょう。


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