阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
父の日礼拝
2019年6月16日
父の愛
マタイ5章43-48節

 今日は父の日です。父の日は母の日と同様、アメリカで、父親を記念し、感謝するために教会から始められました。ドッドという婦人が、男手一つで自分を育て上げてくれた父親に感謝し、父親の誕生月である6月に教会で礼拝したことから始まりました。アメリカでは1972年に国の記念日として6月第3日曜に制定されました。日本では、1980年頃から父の日が知られてきたようです。一般にはこの日、父親に感謝をあらわすためにプレゼントを贈る日になっているようです。家族のために祈り働く父親を覚えて、特に祝福を祈る日としたいと思います。
さて、天の父は私達を愛して、神の子として下さいました。
それは、計り知れない神の愛と恵みによるものです。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(Tヨハネ3:1口語)とあるように、私達は、神の一方的な愛と恵みによって、キリストの十字架によって救われ、罪赦されて神の子とされました。
「神の霊に導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッパ、父よ。』と呼ぶのです。」(ローマ8:15)私達は、聖霊により全知全能の神を父と呼ぶことができるのです。幼い子がその父を呼ぶように、いつでも、いかなる時もアッパとお呼びすることができるのです。
天の父は、愛の父です。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:45)。天の父は、敵対するような者のためにも、太陽を昇らせ雨を降らせてくださるのです。太陽も雨も人が生きていくために、なくてならぬものです。どのような者にも生きるために必要なものを備えて生かして下さるのです。父の愛はイエス・キリストを受け入れた時、初めてわかります。神を知らず迷っていた時でさえ、愛の御手に支えられていたことを悟るのです。神の子である者は、父の御心に従って歩みたいのです。
「隣人を愛し、敵を憎め」(マタイ5:43)、このような御言葉は聖書の中にありません。これは、レビ記19章18節の、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という御言葉が、ユダヤ人により変えられてしまったのです。
「隣人を愛しなさい」という教えは大切な中心的な教えです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13;9)とあって、すべての律法は、隣人を愛することで完成するのだと教えられています。
それがどうして、「敵を憎め」となったのでしょうか。当時のユダヤ人は、「隣人」とは、ユダヤ人、自分の同胞と限定していました。ですから、それ以外の外国人、異邦人は、「敵」と考えました。「隣人を愛する」ということが、「隣人だけを愛する」となり、さらに、隣人以外の人々、即ち「敵」を憎めという事になってしまいました。主イエスは、その間違いを正されたのです。
主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と言われました。当時のユダヤは、ローマ帝国に支配されていました。ローマ兵は、通りすがりのユダヤ人に、いきなり強制的に荷物を背負わせて使う事が許されていました。ただし1ミリオンだけです。これは、ユダヤ人にとっては、屈辱であり迷惑なことでした。
誰かが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさいと主イエスは教えられました。1ミリオンは約1.4キロメートルです。1ミリオンだけ荷物を負えばそれで済むのに、なぜ2ミリオンなのかと疑問に思うのです。しかし、後の1ミリオンが愛なのです。
隣人を愛するための犠牲です。
主イエスは、自分と良い関係にある人を隣人とし、悪い関係の人を敵とする考え方を一掃されたのです。
主イエスの有名なたとえ話に善いサマリア人の話があります。ある人が、「わたしの隣人とはだれですか」と聞いた時に話して下さいました。
エルサレムからエリコへ行こうとしていた人が強盗に襲われて、重傷を負ってしまいました。隣人であるはずの祭司やレビ人が通りかかったのですが、彼らは助けてくれませんでした。後から通りかかった人が彼を助け、行き届いた手当てをして、自分のろばに乗せて宿屋まで連れて行ってくれたのです。傷つき苦しみ呻いている人を憐れに思って助けてくれたのは、日ごろからユダヤ人が軽蔑し、決して付き合おうとはしないサマリア人でした。翌日になると銀貨で2デナリを宿屋の主人に渡して介抱を頼み、余分に費用がかかったら帰りに払うとまで言いました。
このサマリア人は、見ず知らずの敵ともいえる者を、時間、労力、費用の犠牲を払って助けたのです。
主イエスは、「だれが追いはぎにあった人の隣人になったと思うか」と聞かれました。自分を迫害する者の隣人になる事、それが敵を愛する事なのです。
なぜ、敵を愛し、迫害する者のために祈るのでしょうか。それは、天の父の子となるためとあります。「あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5:45)
天の父はあなたの父であるということが愛の理由なのです。
自分を愛してくれる者を愛し、自分の仲間、兄弟だけにあいさつしたとしたら、そのようなことは罪人とされている徴税人や、異邦人と同じことだとあります。
父なる神の、子である者は、父なる神が愛であるように、隣人を愛し、敵を愛し、迫害する者のために祈れと教えておられます。
「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:28)と教えられています。
私達は、いつも主イエスの姿を追い求めながら生きていきます。主イエスならどのようになさるのか、どのように思われるのかを考えます。
隣人を愛し、敵を愛し、誰に対しても祝福を祈り、親切にし、ある時には犠牲を払って愛を表す事、それが神の子が全生涯をかけて求めていく信仰の姿勢ではないでしょうか。
それは、神の御子キリストの信仰の姿勢なのです。
天の父は豊かな父です。天の父は求める者に良い物で満たして下さる方です。
天の父は、子供に何が必要かを良く知っておられるのです。
父親たるものが、自分の子供が魚を求めているのにへびを与える事はありません。卵を必要としているのにさそりは与えません。まして天の父は求める者に良い物をくださいます。
明日の事は心配しないで、今日一日しっかり頑張りなさいと励ますだけでなく、助けの手を伸ばして下さるのです。神の国と神の義を求めていくとき、必要の一切は添えて与えて下さるのです。
天の父は、私達を訓練して下さる父でもあります。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブライ12:5、6)
愛する子は訓練されるのです。誰にも与えられる訓練がないなら、実の子と言えないと聖書にはあります。訓練の目的は、神の聖さにあずからせるためなのです。訓練は当座は悲しいものと思っても、後になれば平和な義の実を結ぶことが約束されているのです。
天の父は、良いお父さんです。私達に良い物だけを豊かに与えて下さいます。
主イエス・キリストの贖いによって、永遠の命をくださいました。天国の希望に満たされるのです。
私達の生涯は、天の父の愛に包まれています。
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と主イエスはお教えになりました。父なる神の完全な愛に留まるなら、この神の愛によって私達も完全な愛を表す者として、神の子であることを証し続けていく事ができるのです。すばらしい天の父の愛を確信し、神の子であることを喜び、感謝と賛美をささげましょう。


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